日本語で上手な文章を書くには:10の「べからず」

やや唐突ですが僕の友人のユダヤアメリカ人から面白いメモをもらったので、本人了解のもと転載します(名前は一応仮名にしておきます)。原文は英語ですが適当に訳してみました。事実誤認など突っ込みどころ満載なんですがあまりに面白いのでそのままにしてあります。

僕から見ると皮肉が利きすぎているように思うのですけど、本人はいたって大真面目のようです(笑)。どっかに載せるつもりなんだろうか。止めといた方がいいと思うけどなあ。わはは。



日本語で上手な文章を書くには
アイザック・シュワルツ(仮名)

私たちには日本の公立学校に通う小学6年生の娘がいる。彼女は小学生になる前から日本で暮らしているため日本語には不自由していないのだが、毎年の夏休みの課題でどうしても良い評価をもらえないものがある。読書感想文だ。

日本の小学校には課題図書というものがあり、全国の小学生たちはみな同じ本を読んでそれについて感想文を書くことになっている。どうやら私の娘は今年もまた良い評価をもらえなかったようだ。

妻と私自身はアメリカで教育を受けており、娘にはどのように文章を構成するかについて一通り教育をしてきたつもりだ。しかしことここに至って、私たちは根本的に何かが間違っているように思えてきたのだ。

そこで、娘から伝え聞いた教師の評価や、日本でいわゆる名文といわれている文章を調査した結果、少なくとも日米では「良い文章」といわれているものに大きな違いがあることがわかってきた。

以下はその違いをもとに私なりにまとめた、日本語で上手な文章を書くための「べからず(Don'ts)」リストだ。私たちと同様にアメリカで教育を受けた皆さんには信じられない内容だろうが、日本ではこのような特徴を持った文章が――小学生の読書感想文に限らず、新聞の社説でも――良いとされているのだ。何かの参考になれば幸いだ(娘の成績向上とか)。

ところで、私の目下の悩みは、こうした特長を持った日本的「名文」を書くよう、娘を指導するかどうかというものだ。何しろ私自身、このような文章を書くことについてはとても自信があるとはいえない。こうして今書いている文章ですら、自分で挙げた「べからず」をひとつとして守っていないのだから・・・。

日本語で上手な文章を書くには:10の「べからず」

1. 何について述べている文章なのかは最後まで明らかにしてはいけない
日本では、何を問題としているのか、何がテーマなのかが最後までわからない文章が良いとされている。冒頭で目的を述べるなどはもってのほかだ。
具体的には、「一度テーマらしきものを述べた後、すぐにそれを否定し、代わりのテーマは最後まで明らかにしない」といった手法が挙げられる。日本では非常に多様されるレトリックだ。

2. わかりやすい構成の文章を書いてはいけない
通常の文章構成である、イントロダクション、主題、結論、という三部構成は、日本ではあまりに型にはまりすぎており面白みのないものとされている。
曖昧模糊として脱線、反復や省略が多く、読者それぞれに異なる印象を残す文章が「良い文章」なのだ。

3. 結論を冒頭に述べてはいけない
我々にとっては一般的な結論を冒頭で述べることは、日本では「味気ない」ものとされている。読者の楽しみを奪ってしまうためだ。

4. 結論を最後に述べてもいけない
皆さんは驚かれるかもしれないが、日本語の良い文章とされるためには、結論は最後に述べてもいけないのだ。
それでは結論はどこに、と思われるだろうが、とにかく結論らしきものは文章のどの場所であっても明確に述べてはならない。日本では、結論を明確に述べるのは文章の余韻を殺す、ぶしつけなものとされているのだ。
代わりに、まるで俳句のように、結論は読者が行間――文脈(context)とやや似た概念だがより幅が広い――を「読む」ことで見つけるものとされている。当然読者により「結論」は異なるわけだが、日本ではそのような解釈の多様性の存在――曖昧さとも言うが――が良いとされているのだ。
これは非常に高度なテクニックであるため、身に着けるには長期に渡る修練が必要となるだろう。正直今の私にはとてもこのような文章は書くことはできない。
ただ、手っ取り早くそれらしい文章を書くには、「べからず1」と同様に、「一度結論らしきものを述べた後、すぐにそれを否定し、しかし代わりとなる結論は述べない」という手法が使えるだろう。

5. ひとつひとつの文章はできるだけ長く曖昧なものとしなければいけない
日本では、接続詞を多用し、ひとつの文章をできる限り長くするべきとされている。途中で主語や述べている対象が変わったり、文の最初と最後で正反対の主張をしているように見える文章が、味わい深い良い文章なのだ(何度読んでも何も言っていないように読める文章はもっと良い)。
同様に、パラグラフもなるべく改行をせずに、話題が変わってもそのまま続けて長く書くことが望ましい。

6. 主張は断言せず、曖昧に述べなくてはいけない
どんなに根拠のある主張であっても、それを明確に言い切ってはいけない。「・・・と思う」「・・・ではないか」など、自信無げに述べるのがつつましく奥ゆかしい名文の条件だ。
また、できることなら、自分が主張しているのではなく、誰かがそう言っている、と述べる方が良い。特定の誰かでも良いが、「大衆」などの曖昧な主語を用いるのがより望ましい。この場合、著者は「大衆」には含まれないのは暗黙の了解とされる。
達人ともなると、誰がそのような主張をしているのか、まったく特定することができないような文章を書くものだ。感服せざるを得ない。

7. 主張の根拠を明示してはいけない
我々はひとつの主張につき最低三つはサポートとなる議論を用意するべき、と教えられるものだが、日本ではこうした形式をとってはいけない。引用は許されるが、出典は記述してはならない。あまりに形式ばった文とされるためだ。

8. 客観的な記述は控えなくてはならない
何かの理由を述べるときは、なるべく主観的に、自分自身の印象、感情や経験に基いて述べるべきだ。誰かがそういっていた、という伝聞や、昔読んだ歴史小説などに基くのも好ましく、事実多用されている(ただし出典は明記してはならない)。
客観的な事実を具体的な事例やデータと共に挙げることは間違ってもしてはならない。押し付けがましくなり、文章の品格がなくなるからだ。

9. 他人の主張を批評してはいけない
日本では、誰かが書いたものを批評することは、もっともしてはいけないこととされている。どんなに冷静な批評であっても、全人格的な侮辱としてとらえられるからだ。
更に、我々には信じがたいことだが、ある人の主張を批判的に検討することすら、その人への侮辱であると考えられている。日本では、誰かの主張を特定し具体的な批評を行うことは、非常に品性のない行為とされているのだ。
従って、他人が書いたものを批評するときは、曖昧に行わなくてはならない。ここでも、一度書いたことをすぐに否定する、というレトリックが多用される。また、「うまく言えないのだが・・・」「言葉にならないのだが・・・」などを用いて、自らに非があるように見せかけるのも良いだろう。
私見だが、これは曖昧な結論の多様な可能性の中からひとつだけを取り出して批評するという行為が好ましくないとされていることに起因しているように思える。文章とはすなわちその人の作品であるから、読者はそれを部分に刻まずに、多様な結論の可能性をそのまま受け入れるべきなのだ。

10. どうしても他人の主張を批評する必要がある場合は、主張そのものではなく、その人の生い立ちや人となりについて述べなくてはならない
これも我々には信じがたいことだが、日本では、他人の主張そのものについての批評は避けられているが、その人の人格に関する論評は大いに行われている。
つまり、ある主張について具体的に検討したい場合は、主張そのものを扱うのではなく、著者の生まれや育ち、人となり、また思想信条を問題としなければならないのだ。
残念ながら、この理由についてだけは、私には今回の調査では皆目見当がつかなかった。娘の進学のためにも、今後も継続して日本的名文の秘密に迫っていくつもりだ。