似非相対主義の話

先々々々日のこの話と昨日の続きに関連して、id:jounoさんから丁寧な反応をいただきました。あー、話がかみ合ってませんね。僕は*似非*相対主義の話をしていて、jounoさんは*まともな*相対主義の話をしているようです。おっしゃるとおり、僕の「似非相対主義」が何を指しているのかが曖昧すぎでした。すみません。
僕が問題にしたかったのは、まさに「占星術と科学は同等だ」のようなオカルトまがいの主張を大真面目にする人達なんです。このレベルの論者に共通していると思われるのは、まともな相対主義や科学哲学の議論を援用して科学には限界があると説きつつ、一方で自らの説を正当化するために科学的な知見を利用する点です。要は変に屈折している。ゲーム脳の話もこれに近いと思ってます。
で、そういう主張をする人達ってのは結局何が言いたいんだろう、と考えたときに、要は彼らは規範的な何かが欲しいんじゃないかな、と思ったわけです。factだけでなくapplicationの話が聞きたいのにそれは与えられない、だったら自分達ででっち上げてしまおう、そういう流れなんじゃなかろうか、と。あくまで想像ですけど。でも「現代では科学が宗教に取って代わった」なんて話を大真面目に信じている人もいるくらいなので、そんなに外してないんじゃないかと思ってます。
というわけで、jounoさんが書かれたこと、つまり科学哲学が科学の有効性を否定しているわけではないこと、また似非相対主義的な主張は哲学や現代思想の世界では全く主流でないこと、に関しては異論はありません(更に日本的事情としていろいろ輸入されるときにごっちゃになってしまったんじゃないか、という点はまさに禿同です。これは「日本の知識人問題」かな)。
ただ一方で、科学的知見と同様、相対主義的なものの見方というのはオカルトなどに安易に利用されやすい傾向があるわけですが、そうした誤用に関して、哲学や現代思想の分野からの批判はあまり聞かれないんじゃないかな、とも思ったりしました。まあ僕がその方面に明るくないので知らんだけかもしれませんが、なんとなく科学がひとりで闘っている感があります(こうした安直な擬人化は良くないんですけど)。どうなんだろう。
【追記】「われわれは、完全に規範的主張を無意識に織り込むことなく記述的主張ができるだろうか。知識は本質的に方法論によってあらかじめ制約を受けるのではないか。」は確かに大きな問いですが、これは時間が(徐々に)解決する(していく)、としか言えないんじゃないかなあと個人的には思ってしまいます。できるかできないか、制約を受けるか受けないか、ということで言えば、できないし制約を受ける、ということは既に(科学論の知見により)明らかなわけですから、重要なのはこの問いに答えを出すことではなく、常に問い続けること、また科学はこうした問いを正面から受け止めているということを科学界外の人々にも知らしめること、なんだと思う次第。