散髪雑感

髪切ったのは確か14日。最近ほっておくと長めに切られることが多いような気がする。景気との関係如何。

id:econ-economeさんのところが閉鎖。残念です。

ファニーとフレディの姉弟。ちょうど2003年の今ぐらいの時期にちょっとwatchしてたのが懐かしい。結局あのとき取り沙汰されてた問題が解決されず、今になって爆発した訳ですね。南無南無。

インフレ懸念とかスタグフレ(略)とか。今朝の日経にもあったんだけど、これほんと良くわかんない。僕はむしろデフレの方を心配しちゃうなあ。特にEU圏と日本。インフレってのは価格水準じゃなくて変化率の問題だし、長期的には常に貨幣的な問題なんだから。

要するに原油だの小麦だのはいづれ代替品や増産で需給が均衡するわけだから、これを勘案して金融政策を運営するのは、資産価格を必要以上に気にすることよりも筋悪と思う。

もっともいつ需給が均衡するのかは神のみぞ知るわけで(そうじゃなかったら丸儲けだ)、また長期的には我々は皆なんとやらなので、ほっとけば良いと言い切れないところがあって難しいのは確かだけど。特に原油や食料品の価格高騰が他の財やサービスの価格に全く影響を与えないかというとそうじゃないし。

でも市場は期待(という言葉が神がかりに聞こえるのであれば、予測と言ってもいいけど)で動いているので、実際に需給が均衡するまで価格が上がっていくわけじゃなくて、いずれ需給が均衡しそうだと市場参加者が考えればその瞬間に価格は下がる。

それに幸いにというか、70年代に見られた賃金と価格の追いかけっこのような上昇(この前訳したクルーグマンが言及していたもの)はたぶん当面起こらないと思ってます。ひとつはこの15年くらい世界的にインフレ率が低位安定していたこと、もうひとつは世界的に景気が減速傾向にあることによって、インフレ期待が落ち着いているから。長期的にはわからんけど、でもしばらくは大丈夫。

だから、中央銀行が対応を誤って原油や食料品からくるインフレに対して金利引き上げなんてことをしなければ、スタグフレーションとかひどいインフレなんてことにはまずならないだろうなと。要するに今回の危機は別に世界の終わりの始まりなんじゃなくて、ソフトランディングは十分可能と思ってます。

ということでFRBはまず大丈夫、心配なのは我が日銀なんだけど、利上げしたがってる委員がいるらしいし、相変わらずダメダメですね。南無南無。

あと日本での小麦やバターが値上がりして云々って話の流れで、馬鹿高い関税による農家・酪農家保護の現状についてほとんど触れられていないようなのもほんと理解に苦しむんだけどまあいいや。なんでガソリンだけ問題にするのかなあ。馬鹿みたい。

話し変わって裸祭りの件。中途半端に放り出してしまってすみません。やっぱり僕は疎外って概念の重要性が良くわからんです。この言葉を使って考えると、理想状態との乖離の原因を常に外部に求めてしまうことになるんで、結局社会も個人も不幸になるだけのような気がするんだよなあ。人は不幸だからマルクス主義者になるのか、それともマルクス主義者だから不幸になるのか。僕は両方だと思ってますがどうなんだろう。

あと「マルクスの基本定理」もよくわかんない。設備投資の話と関連するよう思う。搾取をなくすためには毎期清算解散するLLPみたいの作らんといかんのだろうか。しかしそれにしてもパートナー間で労働は同一で出資金が異なる場合、どう利益を分配したら搾取をなくすことができるのだろう。これって一般的商品搾取定理ってやつなのかな。労働以外の財の投入価値は意味がないらしいんだけど、でも一方でより多く資本を出している人間はより多くリスクを負っているのだから、何らかの見返り(つまりそれは労働以外に基礎を置く見返りだ)がないとダメな気がする。というかそうじゃなかったら誰もリスクを取らなくなってしまって、ということは誰も資本を出さなくなって、あらゆる労働はどんなに頑張っても縮小再生産しかできないことにならないだろうか。これはもちろんすべての人にとって不幸なことだ。搾取をこの地上から永遠になくして見たらみんな不幸になっちゃいました、ってことになるんじゃないか、という気がしてなりませんがどうでしょう。うーん不思議な世界だ。ってまあ僕がまた誤読してるんでしょうけど。教養ないからなあ。わはは。それとアソシエーションがどうやって上手く働くのかもやっぱりわからない。この辺はあとでまた書くかもしれないけど書かないかもしれない。この項長すぎですかそうですか。

最後に与謝野。もうダメだねこの人。悪魔的なのはあんたですよまったく。

十年一日の如く毒づいたところでこの辺で。皆さまごきげんよう

とりあえず読みましたー。

といっても2時間くらいでざざっと読んだだけなので、日をあけて要再読です。久しぶりにページ折ってメモしながら本読みました。

で、今のところ、先のエントリを書き直す必要はあんまり感じてません。やっぱり疎外という概念(というよりもその有用性)が良くわからない。別にこんな概念使わなくても(ということは別にマルクスに依拠しなくても)より良い社会・世界に変えていく提案はできると思うし、むしろその方がすっきりすると思えてならないなあ。

以下個人的なメモ。山形さんが突っ込んでいる点とは別のものを中心に。

  • 「おカネがないほうが自然」を説明するのに、やっぱり「原始時代」が出てきてる(pp. 38-39)。ここで想定されているような「原始時代の社会」「数十人規模のグループ内」で、「各人の貢献や必要に合わせてみんなが納得いくように分配するだけ」といったことが実現していたとは信じがたい。「自然状態」の過度の美化。やっぱりルソーは罪深いと思う。
  • シュティルナーによる「人間の本質」という観念に対する批判(pp. 77-78)。要は僕の先のエントリはこれに尽きるように思うが、本書全体を通じてこの批判に対する回答は見当たらないように読める。本書後半(p. 239)でシュティルナーが再び出てくるけど自給自足(=アソシエーション)の絡みだけ。この批判をまじめに受け取れば疎外という概念がそもそも成り立たないように思えてならない。本書を読む限り、シュティルナーの主張はアナーキーというよりはリバタリアンのそれに近いように思う。というかほとんどアーミッシュだ(笑)。シュティルナーが主張したという「世界の変革ではなく、世界の享楽を」ってのは個人的には賛同するけど「みんな」に勧めるのはどうかなあ(笑)。「私の上に私を超えるような何ものも置くな」というのは激しく同意。仏教にも通じるように思う。
  • 上着」が「神」と同じ位置づけになるという話(p. 114)。ここでは「モノがモノを評価するほかない」状況を批判しているが、では一方で、「あなたの労働は何時間」という評価が妥当なのかどうか。「モノ」が「時間」という「抽象概念」に置き換わっただけのように思えてならない。「時間」という「抽象」ではなく「労働の社会的に有用な部分の評価」が問題なのだとして、じゃあそれは何で計るのか。結局何らかの「抽象」的な単位に換算せざるを得ないのではないか。これを否定してしまっては生産の規模はただ縮小するばかりのように思う。そしてそれは誰もが幸せになり得る社会とは程遠いのではないか。
  • マルクスの基本定理」の話(pp. 123-)。これはちょっとわからない。松尾先生による詳しい解説はここ。ややこしいのでまだ読んでないけど、山形さんが書いているように、資本による付加価値というか生産性の向上という観点が抜けているように思える。って勘違いだったらごめんなさい。後でちゃんと読む予定なり。
  • 制度の効用(p. 172)の話は非常に面白い。たぶん本来言いたいこととは違う面だと思うけど。
  • ゲーム理論による制度分析が「マルクス疎外論による社会分析とほとんど同じことをしている」という主張について(p. 194)。既に田中先生が指摘されている通り、パレート最適でない複数均衡があり得るという話は、ルソー風の「本来の姿」とは関係ない話、つまり疎外を想定しなくても良い話、のように読めてしまう。文化的な制度だの「土台」だのによってパレート最適でない均衡に陥っている状況と、それが「本来の姿」でない疎外の状況であるということは、全然違う話なんじゃないのか。「本来の姿」を仮定する限り最適な均衡は1つしかあり得ず、それはそうした均衡が文化的な制度だの「土台」だのによって移動/ジャンプすることがあり得るという説明(p. 219、唯物史観)と矛盾しているように思う。というかそうした仮定を置くのがいわゆる進歩主義史観ってやつなわけだな。
  • 福祉国家も疎外の産物だった」(pp. 258-259)、で、現在はその必要がないので国家が福祉も医療も抑制している(p. 261)という記述について。前者はどうかわからんけど(でも「資本家がびびって譲歩した」んでもなんでも、良い結果なんだったら良いんじゃないのかなあ)、後者は、特に日本の今の状況については、マクロ的な経済環境を無視した言及のように思える。
  • NPONGO等が「体制側が不要のものとして投げだしていることを逆手にとって」活躍すべき、との記述(p. 267)。やっぱり僕はこれにはあまり賛成できない。政府がすべきことは政府がすべきであって、NPONGO等の活動が政府を代替すべきとは思わないし、できるとも思えない。
  • 「従来の社会主義者は国家権力を使って、上から一挙に全体的に世の中を変えようとしたものですけど、それは本来の社会変革のあり方からすると、正道ではなかったと思います」(p. 272)という記述は激しく同意。
  • その他、第8章で述べられている社会を良くするためのあれこれは、結局疎外という僕にとってはナゾの概念から出てきたものであるので、やはりナゾであるとしか言いようがないように思う。
  • 「おわりに」(pp. 277-)は、個人的にはあんまり共感する部分がなかったりするけど、でも松尾先生がものすごく真剣にこの問題を考えていることは良く伝わってきて、結構感動的。この本を読むときは先にここを読むと結構印象が変わるような気がする。

以上。たぶん大事な論点ぽろぽろのがしてる気がしてならないので変なところあったらご指摘いただけると幸いです。もう眠いので寝ます。おやすみなさい。

「みんな」の無謬性の仮定と「疎外」という概念について

松尾先生の『「はだかの王様」の経済学』(asin:4492371052)に対する山形さんの強烈な書評を読んでの感想を書いてみるよ。ていうかやっぱりルソーって罪深いよなあとつくづく思いました。南無南無。

松尾先生のこの本は未読なんで(でも例によって買って積んではある)、そもそもこの時点であれこれ書くのは失礼千万な話だとは思う。なので、あくまで今回のエントリは、山形さん、econ-economeさんによる書評、および田中先生のエントリ、松尾先生ご自身の疎外に関する説明を読んでの感想ということでご容赦下さい。近日中にちゃんと読んで、必要であれば訂正するようにいたします。これ変だ、ってところがあれば是非ご指摘いただきたく。よろしくおながいします。

ということでまずは山形さんの力説するとおり、やっぱり「疎外」って考え方はどこにも行き着かない袋小路のようなものだなあ、と改めて思った次第。

例えばわかりやすい例として、松尾先生が前提としている(ように山形さんが書いているように僕には読める)「みんな」の無謬性を仮定してしまうと、これは「国家」とか「宗教」とか「市場」と同じく、やはり「人間の本質」を抑圧して疎外してしまうものにならざるを得ないんじゃないか。図は略すけど、まったく同じ絵が描けるよね。「みんな -> 抑圧 -> orz」。

いや、「みんな」は「国家」や「宗教」や「市場」と違って、定義により「みんな」の意志が(話し合いにより)反映されているんだから、抑圧や疎外は起こり得ないんだ、というかもしれない。

でも「みんな」(による話し合い)が上手く働くことなんかほぼあり得ないのは、山形さんも書いてるし、歴史を見てもわかるし、そもそも「みんな」経験してるはずなんだよね。会社の会議って上手くいってますか?

それに、これも山形さんが書いてるけど、「市場」だってある意味「みんな」の意志の反映なわけだ。話し合いはしてないけど、ものすごく真剣な意思決定が日々反映されているのが「市場」なんだから。十分な情報の共有が疎外を何とかするのに有効らしいんだけど、「市場」はそれをするのに、今のところもっとも有効なシステムのひとつなんだよな。

ということで、僕には「市場」による抑圧や疎外と、「みんな」によるそれとの違いが全然わからない。というか「みんな」による話し合いが(十分な情報の共有を実現して)抑圧や疎外を生まないことをどうやって担保するのか、想像もつかない。

だから、こんな風に、それを排除しようとしたとたんそれが生じてしまうなんてことになる、この疎外という概念が、何かを説明するときのカギとなる大事なもののようにはどうしても思えないんだよなあ。ということで疎外って言葉は僕にはやっぱり良くわからんと。

で次に、むしろ僕には、「市場」による抑圧や疎外よりも「みんな」によるそれの方がよっぽど恐ろしいと思える。まあこれも山形さんが書いてることだけど。なんでかって言うと、例え僕が「市場」による抑圧や疎外を感じていたとしても、「市場」をいったん離れたところでは、僕の「本質」(まあそれが何であれ)を保つことが可能なはずだから。

というのも、「市場」はあくまで「市場」であって、世界は別に「市場」だけでできているわけじゃない。「市場」によって抑圧されたり疎外されたりしたって、「市場」以外のどこかで僕の「本質」を保てば良い。良く言う価値の多様性ってヤツですよ。

でも、「市場」と違って「みんな」の場合はそうはいかない。「みんな」は価値の多様性を認めない。だって定義により「みんな」が合意したことなんだから。これは恐ろしい。まさにポルポトとか文化大革命の世界だ。特攻と一億玉砕火の玉だ贅沢は敵だほしがりません勝つまではの世界でもある。「愛国心」とか「天皇制」とかがキライな人たちが「みんな」のことは大好きみたいなのは、僕には全然理解できない。

もちろん、「市場」以外のどこか別の場所で「人間の本質」を保つことが現実的には不可能なほど、経済的に困窮することだってあるだろう。山形さんはこの点について特に書いてないから、やれネオリベだの自己責任論だの言う人が出てくるだろうな。第4節のまとめの最後、「疎外だなんだと騒ぐ前に、自分で努力すれば解消できる部分も多いんじゃない?」なんかまさにそう読めるしね。こういう場合に決まって例として挙がる身障者への対応の話も出てくるだろう。

だがちょっと待ってほしい((c)朝日新聞)。世の中に経済的に困窮する人たちや不平等が存在するのは、本当に疎外が原因なのかな。もしくはこう言っても良いと思うけど、疎外を排除することによって、経済的に困窮する人たちや不平等は本当に減ったりなくなったりするんだろうか。

僕にはそうは思えないんだよねー。そもそも上に書いたように、「疎外」ってのはどうやったってなくならない、誰かがそこにあると言えばあることになる、非常に便利だけど意味のない概念にしか思えないから。意味のないものをなくそうとしても意味のある結果になることはないんじゃないか。要するに目的が悪い。

そう思えないもうひとつの理由は、例えば経済的な困窮や不平等をなくすための手段として、私的所有をやめるだとかNPOだとか「みんな」の話し合いだとか、が有効だとはとても思えないから。要するに手段が悪い。

そんなことするよりも、市場経済の下で持続的な成長を目指して、その上で各人はそれなりにがんばって、で再分配やsafety netの充実については延々と議論を続けていく方がよっぽど良い。もちろん長期的には僕たちはみんな死んでいるから、今すぐに助けが必要な人へは十分な対応ができないかもしれない。

でもそれ言ったら私的所有廃止とかNPOとか「みんな」の話し合いとかだって一緒だよね。経済成長の恩恵はかなり素早く波及する。残念だけれど、今のところこれしか方法がないと僕は思ってる。ていうか不平等とか貧困とかを真面目に考えている人が、経済成長は悪だ、とか言ってるのは僕には本当に理解できない。

まあそうは言っても、私的所有の廃止と違って、NPOだとか「みんな」の話し合いだとかはそんなに大きな害はなさそうだから(これはつまりそんなに大きな良い影響もなさそうだ、ということだ)、各人の信念に基いて続けていく分には悪いことではないとは思う。少なくとも疎外!革命!よりはよっぽど良い。

でも気になるのは、すごく大きなお世話かもしれないけど、NPOとかNGOとかって、いわゆる「小さな政府」とすごく親和性の高い運動なんだよね。広義では自助努力、自己責任に回収されてしまうように僕には思えてならないんだけど、その辺どう考えているんだろうか【誰に問うとはsvnseeds】。まあいいや。

で、もう十分長くなっちゃったんでまあいいやついでに書くと、そもそもこんな疎外とかいう概念が出てきちゃった諸悪の根源は、人間の「本質」やら「本来の姿」やらがあまりに美化されちゃってるからだと僕は思ってる。これはルソーが悪い。

もちろん、人間の「本質」やら「本来の姿」やらを考えることで、基本的な人権とか人間らしい生活水準の保障とか、すごく重要で大事な概念が出てきてるわけだから、何がなんでも全部悪いとは僕も考えてない。

今でも日々人々の生活の向上を目指してがんばってる人だっていて、僕はそれは素直にすごいことだと思ってる。だからこういう考え方やそれに基いて行動している人たちを否定したりあげつらったりするつもりは毛頭ない。

でも、人間の「本質」やら「本来の姿」やらをあんまり美化しすぎちゃうと、そういう「本来」良いものが今は悪い、それは社会(だの環境だの)が悪いからだ、そんな社会は今すぐ変えるべきだ、それ革命だ、って話にすぐになってしまう。

で、革命によってせっかく社会を良い方向に変えたのに、やっぱり人間の「本質」やら「本来の姿」やらが美しく実現できないと、今度は社会が悪いんじゃなくて(だって革命によって「正しい社会」になったわけだから)、逆に美しくない人間が悪いことになっちゃう。矯正だの粛清だのが革命とセットになってるのは必然だよねえ。

だから僕は、人間には「本質」やら「本来の姿」なんてものはなくって、まあ仮にあったとしても大したものじゃなくって、そもそも気にするもんでもない、って考えた方が良いと思うのだなあ(この辺がNPOとかにあんまり共感できない所以のひとつと思う)。

だって普通に考えて、人類の歴史上、最も多くの人々が人間らしい良い暮らしをしてるのは現代だもんね。かつて一度も実現したことのないような理想状態を「本質」とか「本来の姿」って呼ぶセンスはすごいと思う*1

ということで、人間の「本質」やら「本来の姿」なんてのは理想でもなんでもない、世界を改善するには革命的な変化でなく漸進的な変化が望ましい、と僕は思っております。ってコンサバ杉ですかそうですか。まあいいや。



と例によってぐだぐだになったところでおしまいです。激しく長くなりました。ここまで読んでいただいた皆さんどうもありがとうございます。変なところがあれば是非ご教示下さいませ。これから松尾先生の本読みます。ではごきげんよう

*1:もしかしてこれって同時期のサイエンスの勃興に影響受けてるのかな。なんか発想が似てるよね。てかプラトンか。わはは。

所得の伸びとインフレ率について*ちゃんと*調べてみたよ。

昨日のエントリにも大変有益なコメントをいただきました。改めて感謝いたします。甘えた言い分で恐縮ですが、また変なところがあれば是非コメントいただければ幸いです。



ということで、所得とインフレ率についてはecon-economeさんが約3ヶ月前にとっくに言及されていたことをここで明らかにしておきたいと思います(以前読んだはずなんだけどすっかり忘れてましたすみませんすみません)。今更ですが、未読の方はまずは以下2つの素晴らしい分析をお読みいただくことを激しくお勧めいたします。

1番目に挙げたエントリは、原油等の価格の上昇が単純に一般価格の上昇に結びつくわけではないことをこの上なく明確に指摘している点で、大変重要な分析と思います。

また、2つ目に挙げたエントリは、先日のNYTクルーグマン論説と併せてお読みいただくとより一層興味深いものになるでしょう。是非どうぞ。



というわけで、話の流れとしてはもうこれ以上付け加えることはないんですが【蛇足ばかりのsvnseeds】、せっかくなので通りすがりさんにご教示いただいた「オーソドックスなやり方」に則り、

  • 所得(賃金)に毎月勤労統計調査の賃金指数(30人以上(一般・パート))
  • 物価上昇率にCPI(総合)

を用いた図を載せておきます(ソースは本エントリ末にまとめて掲載します)。



【図:所得の伸び率と物価上昇率(改) 1971-2007年】

ついでに比較のため、昨日の図を、上の図とスケールを合わせて以下に再掲します。



【図:所得の伸び率と物価上昇率(再掲) 1965-2007年】

これは、

  • 所得(賃金)に家計調査(1世帯当たり年平均1か月間の収入と支出 − 二人以上の世帯のうち勤労者世帯 実収入)
  • 物価上昇率GDPデフレータ

を用いたものです(ソースは以下ご参照)。



【本日のソース】

では皆さんごきげんよう。これからちょっとジャムセッションに行ってきまーす。

所得の伸びとインフレ率について調べてみたよ。

【6/5/2008追記】いただいたコメントに基き修正したエントリを本日あげましたのでそちらをご参照下さい。

昨日のエントリにnabezo-rさんから次のようなコメントをいただきました。

いっそ、70年代のインフレの方が幸せじゃないかと思ったりもします。

ということでちょっと調べてみました。考えてみたらこんな重要なことまだ調べてなかったのが不思議なり。って誰かもうとっくにやってますかそうですか。



【図:所得の伸び率と物価上昇率 1975-2007年】

ということで一目瞭然、70年代のインフレの方が幸せですね、少なくとも日本の場合。所得の伸びがインフレ率を上回ってますから。

・・・って実は話はそれほど単純じゃなくって、この所得のデータは総務省統計局の家計調査から持ってきたものなんですが、これ、「二人以上の世帯のうち勤労者世帯」のもの、つまり単独世帯や農林漁家世帯が除かれた数字なんですね。だからこれだけ見てたんじゃ実はなんとも言えないものがあります。

まあ1998年以降、つまりデフレがひどくなった時期以降はとにかくひどい、ってことだけは確かですけどね。南無南無。

で、所得のデータは、この家計調査とは別に、単独世帯の数字が含まれている厚労省の「国民生活基礎調査」ってのがあるらしく、こっちだと世帯主年齢階級別の数字もあるようで面白そうなんですが(例えば「世帯主年齢階級別 世帯所得、世帯員1人当たり所得の実質伸び率」みたいな分析が可能みたい)、ネットでは1995年までのデータしか手に入らないという致命的欠陥があります。

家計調査と国民生活基礎調査の所得データの違いは、例えばここの所得格差の推移について家計調査と国民生活基礎調査のデータを比較したものなどを見ると、思ったより大きそうということがわかります。

ていうかOCRかけろとは言わんから、せめてスキャンしたpdfファイルくらい置いておいて欲しいなあ>厚労省。冊子では毎年出てるようなんで、今度時間できたとき図書館行ってきます。ていうか誰か調べないかなあ。たぶんいわゆる「ニート」の話だとか、面白いことが言えそうな気がするんですけど。真面目に誰かやりませんかおながいします。

あ、インフレ率はCPIじゃなくってGDPデフレータを使いました。CPI使った方が実感に合いそうな気がするんですが、なんか総務省統計局のページの使い勝手が大幅に変わってしまってどこにデータがあるのかわかんなかったんですすいませんすいません。

で、GDPデフレータの算出には、1994年までは旧68SNA・平成2年基準の参考系列の数字、それ以降は平成12暦年連鎖方式の正式系列の数字を使ってます。ってこれで良いのかな。おかしいところあったら教えていただけると嬉しいです。

とまあ最後はデータについてのグチでぐだぐだになったところでこの辺で。このグラフは好きに使って良いので誰かもっとマシな分析エントリ書いて下さいおながいします。では皆さんごきげんよう

A Return of That '70s Show? by PAUL KRUGMAN

虹の向こうのどこかにあるというはてな村では「鳥味のケーキ」とか「夢をかなえるかわいそうなゾウ」とかの話で盛り上がってたみたいですけど、こちらは淡々と行きますよええ。

で、某いちご方面で示唆があったのでクルーグマンのNYTimesのコラム(アカウント(無料でとれますけど)がない方はGoogle News経由でどうぞ)を訳してみますた。今回は山形風訳にチャレンジです(笑)*1。例によって変なところがあれば教えていただけると嬉しいです。ではどうぞー。


70年代の逆襲?


A Return of That '70s Show?
By PAUL KRUGMAN
Published: June 2, 2008
http://www.nytimes.com/2008/06/02/opinion/02krugman.html



結局、今の状況に近いのは何年代なんだろうね?


ちょっと前までは、誰もがこの金融市場の修羅場を、1930年代とのおぞましい関連で見ていたみたい。


でも今回、FRBベン・バーナンキとその仲間たちは、彼らの先代たちが1930〜31年にかけての金融危機のときにやりそこなったことをやってのけた。彼らは、金融システムの崩壊を回避するよう強力に動いたんだ。で、その努力は、今のところ報われてるみたい。まだ金融市場は正常とはいい難い状態だけど、でもこの数ヶ月、動揺は徐々に落ち着いてきている。


そこで、君はこう考えるかもしれない。みんな、バーナンキ氏とその仲間たちの素晴らしい仕事を祝福してるんだろうね、と。でも、僕が最近参加した経済会議では、多くの参加者たち――政策方面に大きな影響力を持ってる人たちも含まれてる――は、バーナンキたちを激しく非難しているみたいなんだ。


つまり、1930年代型の金融破綻の恐怖はどうやら去ったけれど、かわりに1970年代型のスタグフレーションの恐怖がやってきちゃった、ってわけ。で、FRBはインフレに弱腰なのを非難されてるんだ。


僕がそこで聞いたことから察するに、最近浮上してきた世論は、バーナンキ氏は最初っから間違った敵と闘っていた、というものだ。つまり、金融崩壊じゃなくてインフレーションが本当の脅威なんだと。で、その脅威を回避するためには、批判者たちによれば、FRBはその針路を反転して金利を上げるべきなんだって――リセッションのリスクなんか気にせずに。


ここらがこの新しい世論は全然間違っている、と断言しとくのにいい頃合だろう。僕らは70年代のショーの再演を見てるんじゃない――で、こうした見当違いの信念は多くの被害をもたらしかねないんだ。


確かに、石油やその他の原材料価格の急上昇が、生活費の上昇を通じて人々を苦しめてはいる。でも今回は、石油価格の上昇による一時的なショックがしつこい高インフレに変化した1970年代とは違って、賃金と物価の連鎖的上昇の兆候はかけらもないんだよ。


昔はどうだったのか、例を挙げてみよう。1981年の5月、統一鉱山労働者組合は炭鉱事業者と、今後3年間に亘っての賃金上昇率を平均して11パーセントに固定する契約にサインした。この組合は、1970年代後半の二桁のインフレが今後も続くと予想したので、こんな大きな賃金の引き上げを要求したんだ。一方、炭鉱のオーナーたちは、その前の3年間で40パーセントも値上がりしていた石炭が、将来も大きく値上がりすると予想していたので、組合の要求に応える余裕があると考えたんだ。


当時は、この炭鉱労働者たちの合意はちっとも変じゃなかった。多くの労働者たちは似たような契約を取り付けていた。労働者と雇用者は、実際のところ、馬跳び競走を演じてたんだ。つまり、労働者たちはインフレに取り残されないように大きな賃金上昇を望んで、企業側はその高い賃金を価格に転嫁して、で、価格上昇は再び賃金上昇の要求を招いて、以下繰り返し。


いったんこんな感じの自律的なインフレ過程が軌道に乗ってしまうと、止めるのがとても難しくなる。現に、この1970年代の遺産であるインフレを退治するためには、1930年代以来最悪のまったく酷いリセッションが必要だったんだ。


でも、さっき言ったように、今回は賃金と物価の連鎖的上昇は見られない。


インフレタカ派の皆さんは、消費者たちがこの十年間で初めて、今後1年間に急速な物価上昇を予想していると世論調査員に語ったことを指摘している。うん、まったくその通り。


でもさ、組合の年間11パーセントの賃金引き上げ要求はどこにいっちゃったの?(ていうかそもそも組合はどこ?)。確かに消費者はインフレを心配しているけど、でも賃上げを要求している労働者や、ましてやそれを受け入れるつもりのある雇用者を見つけようとしたら、徹底的に探し回る必要があるよ。むしろ、雇用状況が悪化したおかげで、賃金の上昇は実際には減速してるみたいなんだ。


で、賃金と物価の連鎖的上昇が見られないんだから、僕らは高い金利でインフレーションを抑制する必要もない。コモディティ価格の急騰が安定したときには――需要と供給の法則が無効になったことはないから、いつかはそうなる――インフレーションは自然に沈静化するだろう。


それでも、インフレ抑制への追加の保険として、ちょびっとだけ金利を上げるのはどうだろう、って?


答えの一部としては、もし金利が上がることで今よりもマネーが高価になったら、現在沈静化しているように見える金融危機が再燃するかもしれない、ということがある。


で、たとえ金融危機が再燃しなくても、高い金利は既に弱い実体経済を更に弱めてしまうだろう。僕たちが理論的にリセッションに陥っているかどうかなんてことはどうでもいい。ほとんどの人はリセッションだと感じてて、で、高い金利はそれを悪化させるだけなんだ。


結論としては、高いガソリンや食料はアメリカの家庭に実質的な害を負わせているけれども、それでも1970年代型のインフレスパイラルには至っていない。僕たちがこの方面で恐れなければならない唯一のものは、不景気を更に悪化させるような政策を導くかもしれない、インフレへの恐れそのものなんだ。

【かいせつのようなもの】

確かにこれは「世界はスタグフ(略)」とかいってる人たちに付けるには良い薬かも。スタグフレーション、というかそれ以前にひどくしつこいインフレだって、賃金の持続的な上昇が必ず観察される、って事実を忘れちゃいかんです。

米国ですらこうなんだから、「日本はスタグf(略)」とかいってる人たちには、ってもう付ける薬ないかもねえ。わはは。いいからコアコアCPIとGDPデフレータだけ見とけと小1時間ですよ。あ、CPIバイアスも考慮してね(はあと)。

なお言わずもがなですが、金利というのは要するにおカネの値段なわけです。で、金融危機っていうのは、みんな疑心暗鬼になって誰もおカネを貸したくなくなっちゃった状態。

「予防的利上げ」(またの名を「ふぉわーどるっきんぐ」w)に対するクルーグマンの見解は、ようやく疑心暗鬼が和らいでおカネが回りだしたのに、わざわざその値段を上げて流通を絞るなんて狂気の沙汰だよね、というもの。激しく同意です。

しかしここでのクルーグマンの結論は中々味わい深いものがあります。日本の90年代以降の長期停滞は、一言で言えば、過剰なまでの「インフレへの恐れ」がもたらしたものだ、と言っちゃって良いんじゃないかなあ。

まああとは「財政均衡への近視眼的な執着」とか「財務省の中の人の長期金利と政府負債に関する誤解」とか「強い円信仰(笑)」とか、色々あるけど。南無南無。

ちなみに、原文タイトルの「That '70s Show」ってのはこれのことみたい。最初何かと思っちゃった。このままじゃわけわからんので結局シンプルに「70年代の逆襲?」としてみました。こういうのってどうしたらいいんだろ。

なお次回は今更ですが例のスティグリッツ論説を訳す予定です。というかもう半分くらいできてる。今更杉ですかそうですか。ああ翻訳だけやって食っていくことはできなものか知らん【寝言は寝てからsvnseeds】。では皆さんごきげんよう

*1:確かにクルーグマンはかなりくだけた口調なんでこういった訳の方があっているように思う。でも実際やってみるとすごく難しい!やっぱり山形さんはすごい。

ご無沙汰しております。

なんとか生きてますー。散髪したのは4月の末だったんだけどばたばたしていて何も書けず。気付いたらもう5月も終わりかあ。やっぱり時間的な余裕に加えて精神的な余裕もないと何か書こうという気にならんものですねえ。

そういえばこのダイアりー(「り」は平仮名です絶対)も6年目に入りました。長いなあ。大したこと書いてないけど。わはは。

で、そんなタイミングで取り巻きに認定されたらしいのは大変感慨深い。わーい(違)。

しかし懐かしい。Ririkaさんに限らず、flapjackさん、sujakuさん、bmpさん、Bonvoyageさん、ゴキブリ28号さん、他にもコメントであれこれお話した皆さん、お元気ですかねー。当時はコメント欄で改行できなくって、/とか▼とか使って無理やり段落わけてたのが今読み返すと面白いなあ。ていうか僕の長文コメント大杉ですかそうですか。わはは。

Ririkaさんと直接やり取りするきっかけになったのは、2004年の3月、例の「降りる自由」の話題かな。kmiuraのところに書いた僕のコメントを、Ririkaさんが例の調子の喧嘩腰に読めなくもない感じ(笑)で取り上げたのが最初だったはず。

僕にとっては、Ririkaさんは上に挙げた他の人たちと同様、「話せばわかる」っていうか、勝ち負けでなくお互いの差異を見出すことに興味がある、つまり書き言葉で議論ができる人、として認識しておりました。というか理屈でいくら話しても嫌がらない人というか。たぶんこれはお互い様の印象だったと思うけど。わはは。

だから正直、「アイドル」とか「取り巻き」とか言われてもちょっとぴんとこない部分はある。どっちかというと高校や大学のクラブ/サークルに近い認識。みんなそれぞれ複数のクラブ/サークルに所属していて、つまり複数の世界を同時並行的に持っていて、たまたまお互い興味関心が一致している部分で仲良く遊んでいた(というか理屈っぽい話をしていたw)、お互い関心ない話題はその話を相手がしていても放置、みたいな。ちなみに顧問の先生(笑)は終風翁ことfinalventさん。みんな専門でもない分野であれこれ好きなこと言ってたので、時々突っ込みが入るという。わはは。

まあとは言っても、そのみんなが一致していた関心分野においては、Ririkaさんが中心というかハブというかfocal pointであったのは間違いないかな。いなくなっちゃってからは、コメントであれだけ濃いやり取りをすることって減っていったもんね。もちろん、僕も含めみんなの興味分野が移ったり、単純に時間を割くことができなくなった、てこともあるんだろうけど。だからそういう意味では、その部分を取り出して見れば、「アイドル」とか「取り巻き」って見方も外れてはいないかなあ。

話は変わるけど、はてなってもともと、ああいう変な濃ゆいコミュニティを作るのに向いてたツールだったと思うんだよなあ。当時は確かトラックバックってなかったし(最初は仕組みがわからんかったw)、id記法によるリンクとコメントという顕示的なコミュニケーションが中心で、とは言ってもmixiみたいに本当に閉じているわけではなく妙なところで思わず仲良くなる機会があって(本当に友人の友人は友人、って世界)、濃いんだけど境界が曖昧というかオープンというか、変なメディアだったと思う。

そんな牧歌的な性格が決定的に変わったのは、やっぱりブックマークの導入以降かなあ。もちろんそれだけじゃなくて、単にユーザが増えたってのもあるだろうけど。ブックマークの気持悪さについては昔書いたことがあるんだけど、今読み返してみてもあんまり違和感ないかな。確かこれ書いた当時はまだベータサービスだった気がするけど、すっかり定着しましたねえ。

と、なんか長くなっちゃったな。たった4年前のことなんだけど本当に懐かしい。ああいう濃いコミュニティってもうできないんだろうな、という気がしている。これは古き良き昔を回顧しているというよりは、なんだろう、うまく言えないや。やっぱりノスタルジーかなあ。今だって昔と同じくらい良いんだけどね。わはは。

これから皿洗いして部屋掃除して、大学時代の友人の結婚式に行ってきます。半分同窓会みたいなものなんで楽しみ。そうかそれもあってのすたるj(略)。では皆さんごきげんよう