「みんな」の無謬性の仮定と「疎外」という概念について

松尾先生の『「はだかの王様」の経済学』(asin:4492371052)に対する山形さんの強烈な書評を読んでの感想を書いてみるよ。ていうかやっぱりルソーって罪深いよなあとつくづく思いました。南無南無。

松尾先生のこの本は未読なんで(でも例によって買って積んではある)、そもそもこの時点であれこれ書くのは失礼千万な話だとは思う。なので、あくまで今回のエントリは、山形さん、econ-economeさんによる書評、および田中先生のエントリ、松尾先生ご自身の疎外に関する説明を読んでの感想ということでご容赦下さい。近日中にちゃんと読んで、必要であれば訂正するようにいたします。これ変だ、ってところがあれば是非ご指摘いただきたく。よろしくおながいします。

ということでまずは山形さんの力説するとおり、やっぱり「疎外」って考え方はどこにも行き着かない袋小路のようなものだなあ、と改めて思った次第。

例えばわかりやすい例として、松尾先生が前提としている(ように山形さんが書いているように僕には読める)「みんな」の無謬性を仮定してしまうと、これは「国家」とか「宗教」とか「市場」と同じく、やはり「人間の本質」を抑圧して疎外してしまうものにならざるを得ないんじゃないか。図は略すけど、まったく同じ絵が描けるよね。「みんな -> 抑圧 -> orz」。

いや、「みんな」は「国家」や「宗教」や「市場」と違って、定義により「みんな」の意志が(話し合いにより)反映されているんだから、抑圧や疎外は起こり得ないんだ、というかもしれない。

でも「みんな」(による話し合い)が上手く働くことなんかほぼあり得ないのは、山形さんも書いてるし、歴史を見てもわかるし、そもそも「みんな」経験してるはずなんだよね。会社の会議って上手くいってますか?

それに、これも山形さんが書いてるけど、「市場」だってある意味「みんな」の意志の反映なわけだ。話し合いはしてないけど、ものすごく真剣な意思決定が日々反映されているのが「市場」なんだから。十分な情報の共有が疎外を何とかするのに有効らしいんだけど、「市場」はそれをするのに、今のところもっとも有効なシステムのひとつなんだよな。

ということで、僕には「市場」による抑圧や疎外と、「みんな」によるそれとの違いが全然わからない。というか「みんな」による話し合いが(十分な情報の共有を実現して)抑圧や疎外を生まないことをどうやって担保するのか、想像もつかない。

だから、こんな風に、それを排除しようとしたとたんそれが生じてしまうなんてことになる、この疎外という概念が、何かを説明するときのカギとなる大事なもののようにはどうしても思えないんだよなあ。ということで疎外って言葉は僕にはやっぱり良くわからんと。

で次に、むしろ僕には、「市場」による抑圧や疎外よりも「みんな」によるそれの方がよっぽど恐ろしいと思える。まあこれも山形さんが書いてることだけど。なんでかって言うと、例え僕が「市場」による抑圧や疎外を感じていたとしても、「市場」をいったん離れたところでは、僕の「本質」(まあそれが何であれ)を保つことが可能なはずだから。

というのも、「市場」はあくまで「市場」であって、世界は別に「市場」だけでできているわけじゃない。「市場」によって抑圧されたり疎外されたりしたって、「市場」以外のどこかで僕の「本質」を保てば良い。良く言う価値の多様性ってヤツですよ。

でも、「市場」と違って「みんな」の場合はそうはいかない。「みんな」は価値の多様性を認めない。だって定義により「みんな」が合意したことなんだから。これは恐ろしい。まさにポルポトとか文化大革命の世界だ。特攻と一億玉砕火の玉だ贅沢は敵だほしがりません勝つまではの世界でもある。「愛国心」とか「天皇制」とかがキライな人たちが「みんな」のことは大好きみたいなのは、僕には全然理解できない。

もちろん、「市場」以外のどこか別の場所で「人間の本質」を保つことが現実的には不可能なほど、経済的に困窮することだってあるだろう。山形さんはこの点について特に書いてないから、やれネオリベだの自己責任論だの言う人が出てくるだろうな。第4節のまとめの最後、「疎外だなんだと騒ぐ前に、自分で努力すれば解消できる部分も多いんじゃない?」なんかまさにそう読めるしね。こういう場合に決まって例として挙がる身障者への対応の話も出てくるだろう。

だがちょっと待ってほしい((c)朝日新聞)。世の中に経済的に困窮する人たちや不平等が存在するのは、本当に疎外が原因なのかな。もしくはこう言っても良いと思うけど、疎外を排除することによって、経済的に困窮する人たちや不平等は本当に減ったりなくなったりするんだろうか。

僕にはそうは思えないんだよねー。そもそも上に書いたように、「疎外」ってのはどうやったってなくならない、誰かがそこにあると言えばあることになる、非常に便利だけど意味のない概念にしか思えないから。意味のないものをなくそうとしても意味のある結果になることはないんじゃないか。要するに目的が悪い。

そう思えないもうひとつの理由は、例えば経済的な困窮や不平等をなくすための手段として、私的所有をやめるだとかNPOだとか「みんな」の話し合いだとか、が有効だとはとても思えないから。要するに手段が悪い。

そんなことするよりも、市場経済の下で持続的な成長を目指して、その上で各人はそれなりにがんばって、で再分配やsafety netの充実については延々と議論を続けていく方がよっぽど良い。もちろん長期的には僕たちはみんな死んでいるから、今すぐに助けが必要な人へは十分な対応ができないかもしれない。

でもそれ言ったら私的所有廃止とかNPOとか「みんな」の話し合いとかだって一緒だよね。経済成長の恩恵はかなり素早く波及する。残念だけれど、今のところこれしか方法がないと僕は思ってる。ていうか不平等とか貧困とかを真面目に考えている人が、経済成長は悪だ、とか言ってるのは僕には本当に理解できない。

まあそうは言っても、私的所有の廃止と違って、NPOだとか「みんな」の話し合いだとかはそんなに大きな害はなさそうだから(これはつまりそんなに大きな良い影響もなさそうだ、ということだ)、各人の信念に基いて続けていく分には悪いことではないとは思う。少なくとも疎外!革命!よりはよっぽど良い。

でも気になるのは、すごく大きなお世話かもしれないけど、NPOとかNGOとかって、いわゆる「小さな政府」とすごく親和性の高い運動なんだよね。広義では自助努力、自己責任に回収されてしまうように僕には思えてならないんだけど、その辺どう考えているんだろうか【誰に問うとはsvnseeds】。まあいいや。

で、もう十分長くなっちゃったんでまあいいやついでに書くと、そもそもこんな疎外とかいう概念が出てきちゃった諸悪の根源は、人間の「本質」やら「本来の姿」やらがあまりに美化されちゃってるからだと僕は思ってる。これはルソーが悪い。

もちろん、人間の「本質」やら「本来の姿」やらを考えることで、基本的な人権とか人間らしい生活水準の保障とか、すごく重要で大事な概念が出てきてるわけだから、何がなんでも全部悪いとは僕も考えてない。

今でも日々人々の生活の向上を目指してがんばってる人だっていて、僕はそれは素直にすごいことだと思ってる。だからこういう考え方やそれに基いて行動している人たちを否定したりあげつらったりするつもりは毛頭ない。

でも、人間の「本質」やら「本来の姿」やらをあんまり美化しすぎちゃうと、そういう「本来」良いものが今は悪い、それは社会(だの環境だの)が悪いからだ、そんな社会は今すぐ変えるべきだ、それ革命だ、って話にすぐになってしまう。

で、革命によってせっかく社会を良い方向に変えたのに、やっぱり人間の「本質」やら「本来の姿」やらが美しく実現できないと、今度は社会が悪いんじゃなくて(だって革命によって「正しい社会」になったわけだから)、逆に美しくない人間が悪いことになっちゃう。矯正だの粛清だのが革命とセットになってるのは必然だよねえ。

だから僕は、人間には「本質」やら「本来の姿」なんてものはなくって、まあ仮にあったとしても大したものじゃなくって、そもそも気にするもんでもない、って考えた方が良いと思うのだなあ(この辺がNPOとかにあんまり共感できない所以のひとつと思う)。

だって普通に考えて、人類の歴史上、最も多くの人々が人間らしい良い暮らしをしてるのは現代だもんね。かつて一度も実現したことのないような理想状態を「本質」とか「本来の姿」って呼ぶセンスはすごいと思う*1

ということで、人間の「本質」やら「本来の姿」なんてのは理想でもなんでもない、世界を改善するには革命的な変化でなく漸進的な変化が望ましい、と僕は思っております。ってコンサバ杉ですかそうですか。まあいいや。



と例によってぐだぐだになったところでおしまいです。激しく長くなりました。ここまで読んでいただいた皆さんどうもありがとうございます。変なところがあれば是非ご教示下さいませ。これから松尾先生の本読みます。ではごきげんよう

*1:もしかしてこれって同時期のサイエンスの勃興に影響受けてるのかな。なんか発想が似てるよね。てかプラトンか。わはは。