科学者とエンジニアとしてのマクロ経済学者(1)

【この文章は、N. Gregory Mankiwの"The Macroeconomist as Scientist and Engineer"を勝手に翻訳したものです。本日より段階的にアップロードしていく予定です。内容などおかしなところがあれば、メールもしくはコメントにてご指摘いただければ幸いです】

科学者とエンジニアとしてのマクロ経済学

経済学者たちは自分たちが科学者であるかのような印象を与えることを好む。なぜ私がそれを知っているかというと、私自身しばしばそう振舞うからだ。学部生相手の講義では、私は意識的に経済学の分野を科学として説明するので、これからぐちゃぐちゃとした学問的な冒険に乗り出すのだ、と考えて受講を開始する学生はいないだろう。キャンパスの物理学部の同僚たちは、我々が彼らを近い親類と見なしていることを知ったら面白がるだろうが、しかし我々は聞く耳さえ持つ者に対しては誰にでも、経済学者というものは理論を数学的精確さで定式化し、膨大な個人や集団の行動のデータセットを収集し、そしてもっとも洗練された統計的なテクニックを駆使してバイアスやイデオロギーに影響されない経験的判断に達するのだ(もしくはそうなると考えることを好むのだ)、と即座に指摘するのだ。

アメリカ経済が不況から脱出しようともがいているときにワシントンで経済顧問として2年間を過ごした最近の経験は、マクロ経済学のある部分は科学としてではなくむしろある種のエンジニアリングとして誕生したのだ、ということを改めて思い起こさせてくれた。神は、エレガントな理論を提唱したり評価するためではなく、現実の問題を解決するためにマクロ経済学者をこの世に創り出したのだ。その上、神が我々に与えたもうた課題は規模的に控えめなものではなかった。我々のこの分野を生み出したその問題――1930年代の大恐慌――は、未曾有の規模の、所得の落ち込みと失業の蔓延を伴う経済的沈滞であり、誇張でもなんでもなく、資本主義システムの存続可能性に疑問が呈されたのだった。

この小論では、マクロ経済学の簡単な歴史を、我々がそこで学んだことの評価と共に提示する。私の前提は、この分野は2種類のタイプのマクロ経済学者――一方はこの分野を一種のエンジニアリングと理解し、もう一方はむしろ科学と理解している――の努力により発展してきた、というものだ。エンジニアというのは何よりもまず問題を解決する者だ。対照的に、科学者の目標はこの世界がどのように働くかを理解することにある。マクロ経済学者たちの研究の重点はこれらふたつの目的の間を揺れ動いてきた。初期のマクロ経済学者たちはエンジニアとして実際の問題を解決しようとし、その一方でこの数十年のマクロ経済学者たちは分析手法を開発したり理論的な法則を確立することにより関心があった。それらの分析手法や法則は、しかしながら、実際の問題に応用されるまでには時間を必要とした。マクロ経済学の分野が発展していく中で何度も持ち上がるテーマは、科学者とエンジニアの間の相互の―ときに生産的でありときにそうでない―交流だ。科学者とエンジニアの間の根本的な断絶は、この分野で研究している我々にとって屈辱的な事実といえるだろう。

無用な混乱を避けるため、まず私はここで誰が良くて誰が悪いという話をしようとしているわけではないことを断っておくべきだろう。科学者であれエンジニアであれ、どちらかがより多くの美徳を持つと主張できるわけではないのだ。またここでの話は、一方が深い思索者でありもう一方は単純素朴な配管工だというものでもない。一般的に、科学の教授たちは、エンジニアリングの教授たちが科学の問題を解く場合と同様、エンジニアリングの問題を解くのが得意ではない。そしてどちらの分野においても、最先端の問題は解決の難しい問題であり、また知的に挑戦し甲斐のある問題でもあるのだ。

ちょうど世界が科学者とエンジニアの両方を必要としているように、世界には両方の考え方をするマクロ経済学者が必要なのだ。けれども、マクロ経済学者たちが、この分野はふたつの役割を持っているのだということを常に念頭においていれば、この学問分野はより順調かつ実り豊かに発展するだろう、と私は信じている。