科学者とエンジニアとしてのマクロ経済学者(9)

【この文章は、N. Gregory Mankiwの"The Macroeconomist as Scientist and Engineer"を勝手に翻訳したものです。段階的にアップロードしていく予定です。内容などおかしなところがあれば、メールもしくはコメントにてご指摘いただければ幸いです】


教室で


世界の首都の権力の回廊を越えた所に、経済学の専門家がその商品を幅広い聴衆に売り込もうと試みているもうひとつの場所がある――大学学部の教室だ。我々のような定期的に学部学生に講義している者は、その仕事を、良い政策の原則について広い見識を持った市民を作り出すものであると見なしている。教材の選択は、何が次の世代の有権者たちが理解すべき重要なことと我々が見なしているかに基いているのだ。

政策を策定する者たちと同様、学部学生たちはたいてい理論のための理論にはあまり興味がない。その代わりに、彼らは、実際の世界はどのように動いているのか、また公共政策はどのように経済活動を向上させ得るのか、を理解することに興味を持っている。大学院へ進学して経済学者としてのキャリアを検討している稀有な学生を除き、学部学生は、科学者のではなくエンジニアの物の見方をしているのだ。従って、我々が学部学生を教えるのに用いる教材に留意することは有益となる。そして、学部で広く使われている教科書の中身よりも、我々が教えていることに注目するの方が重要なのだ。

例えば、中級レベルのマクロ経済学を教えるのに使われている本を考えてみよう。一世代前には、代表的な教科書を三つ挙げるとするならば、ロバート・ゴードンのもの、ロバート・ホールとジョン・テイラーのもの、そしてルドガー・ドーンブッシュとスタンレー・フィッシャーのものがあった。一方、今日の売り上げトップ3は、オリバー・ブランシャール、アンドリュー・エーベルとベン・バーナンキ、そして私によって書かれた教科書だ。これら6冊の共通点は、少なくとも一人の著者が、サミュエルソンとソローによるマクロ経済学的伝統が支配的な、突出したエンジニアリングの学校であるMITで大学院教育を受けた点にある。これらすべての本において、学部学生に教授される基本的な理論はなんらかの種類の総需要と総供給であり、そして総需要の基本的な理論はIS-LMモデルなのだ。同様の教訓は、最も広く使われている新入生レベルの経済学の教科書を精読することでも得ることができる。短期の経済変動は、なんらかの種類の新古典派-ケインジアン総合を用いることで最も良く理解することができるのだ。

私は、この分野が発展するにつれて教育が停滞したと言いたいわけではない。今日の教科書は30年前のものに比べ、古典派の金融理論、長期の成長に関するモデル、そして期待の役割について、非常に強調して扱っている。どの政策が目的を達成するかに関する確信は控えめで、ルールに基いた政策が裁量的な金融政策や財政政策よりも強調されている(政策ルールの実務的な重要性に関する証拠に欠けているにも関わらず)。しかし、今日の学生が景気循環の理解について学ぶ基本的な枠組みは、初期の世代のケインジアンたちが精通していただろうものなのだ。

この基準を証明する例外は、1984年に出版されたロバート・バロー(Robert Barro)による中級の教科書だ。このバローの本は、学部学生向けに書かれた新古典派の方法論による明快でとっつきやすい入門書となった。ケインジアンのモデルは収録されているが、しかしそれは後半で扱われており、短く、また特に強調もされていない。この本が登場したときは、多大な注目と賞賛を集めた。しかしながら、多くのマクロ経済学者はこのバローの本を読んだにも関わらず、この本を学生用に選んだ者はずっと少なかったのだ。バローが望んだ教育分野における新古典派の革命は成功することはなく、またバローの教科書は当時支配的だった教科書たちの地位を脅かすこともなかったのだった。

マクロ経済学の教育分野における革命の不在は、半世紀前に起こったことと著しい対照を成している。学部学生にケインズ革命を紹介することを目的としたサミュエルソンの教科書が1948年に出版されたとき、世界中の教師たちはすばやくまた誠心誠意、新しい方法論を喜んで受け入れたのだった。対照的に、新古典派と新ケインズ派の考え方は、学部学生がどのように教えられるのかについて、抜本的に変更することはなかったのだ。