科学者とエンジニアとしてのマクロ経済学者(3)

【この文章は、N. Gregory Mankiwの"The Macroeconomist as Scientist and Engineer"を勝手に翻訳したものです。段階的にアップロードしていく予定です。内容などおかしなところがあれば、メールもしくはコメントにてご指摘いただければ幸いです】

新古典派

1960年代の後半には、ケインジアン・コンセンサスにヒビが生じ始めた。このヒビはやがて亀裂に成長し、最終的にはマクロ経済学のコンセンサスを粉々にして、主流の経済学モデルに対する信頼を台無しにするだろうと思われた。ここに来て、より古典的な経済観が再び姿を現したのだった。

新古典派経済学の最初の波はマネタリズムで、その最も著名な提唱者はミルトン・フリードマンだった。フリードマン(Friedman, 1957)による恒常所得仮説に関する初期の研究は、直接に貨幣や景気循環に関するものではなかったが、しかし確実にビジネスサイクル理論に影響を与えるものだった。それは部分的には、ケインジアンの理論と政策処方の中心である財政乗数の基礎となる、ケインジアンの消費関数への攻撃となった。もしも変動所得の限界消費性向が、フリードマンの理論が示唆する通りに小さいのであれば、財政政策が均衡所得に与える影響は、多くのケインジアンが信じているよりも小さなものとなるのだ。

フリードマンとシュワルツ(Friedman and Schwartz, 1963)の「Monetary History of the United States」(米国の金融史)ではより直接的に景気循環について論じており、そしてまた、この著作もケインジアン・コンセンサスを揺るがしたのだった。ほとんどのケインジアンは、経済とは投資家たちの絶え間なく変化する「アニマル・スピリット」に翻弄される本質的に不安定なものと見なしていた。フリードマンとシュワルツは、経済の不安定さは個人的主体ではなく、むしろ不適切な金融政策に由来すると考えるべきだ、と示唆したのだ。その含意は、単純な政策ルールに従うことで誰も傷つけることがないのであれば、政策決定者はそれに満足するべきだ、というものだった。フリードマンの提案した通貨供給量の安定成長ルールは、今日ではわずかな支持者しかいないものの、しかしこれは現在世界各国の多くの中央銀行で採用されているインフレーション・ターゲット政策の初期の前身であった。

フリードマンの1968年におけるアメリカ経済学会での会長演説(Friedman, 1968)は、フェルプス(Phelps, 1968)と共に、ケインジアンのモデルの最も弱い点、つまりフィリップス曲線におけるインフレーションと失業の間のトレードオフに狙いを定めたものだった。少なくともサミュエルソンとソロー(Samuelson and Solow, 1960)以降、ある種のフィリップス曲線は、ケインズ自身が導入したものではなかったとは言え、ケインジアン・コンセンサスの一部となっていた。サミュエルソンとソローはこのトレードオフは理論的根拠が薄弱であることを理解しており、彼らの論文はなぜ短期と長期ではトレードオフが異なり得るかに関する警告でいっぱいだった。しかし後に続く論文ではあまりにも安易にこうした警告のすべてが忘れられてしまったのだ。フィリップス曲線は、なぜ価格が市場を均衡させることに失敗し、また価格水準が最終的にどのように調整されるのか、を説明することに常に問題を抱えていたケインジアンのモデルを補完する便利な方法を提供したのだった。

フリードマンは、インフレーションと失業の間のトレードオフは、もしも古典派の原理が適用され、かつ貨幣が中立であるならば、長期では成り立たないと主張した。なぜトレードオフがデータに現れるかというと、短期ではインフレーションはしばしば予期されておらず、また予期されないインフレーションは失業を低下させ得るからだ。ここでフリードマンが示唆したこの特定のメカニズムは、一部の労働者による貨幣錯覚だった。しかしマクロ経済学の発展にとってより重要だったのは、フリードマンが期待を舞台の中央に配置したことだ。

これによって新古典派経済学の第2の波の準備が整った――合理的期待革命だ。一連の非常に影響力の大きな論文の中で、ロバート・ルーカスはフリードマンの議論を拡張した。彼は「Economic Policy Evaluatoin: A Critique」(Lucas, 1976)の中で、主流派ケインジアンのモデルは期待を正面から取り扱うことに失敗しているために政策分析には役に立たないと論じた。そのため、それらのモデルを構成している推定による経験的な関係は、もしも代替的な政策が実施された場合、崩壊することになる。ルーカス(Lucas, 1973)はまた、不完全情報、合理的期待、および市場均衡の仮定に基いたビジネスサイクル理論を提唱した。この理論においては、金融政策は人々を驚かせ相対価格に関して混乱を生じるという点においてのみ重要となるのだ。バロー(Barro, 1977)は、このモデルが米国の時系列データと整合的である証拠を提示した。またサージェントとウォレス(Sargent and Wallace, 1975)は、政策にとって重要な含意を指摘した。合理的な人々を体系的に驚かすことは不可能だから、経済の安定を目的としたシステマティックな金融政策は失敗する運命にある、と。

新古典派経済学の第3の波は、キドランドとプレスコット(Kydland and Prescott, 1982)、およびロングとプロッサー(Long and Plosser, 1983)によるリアルビジネスサイクル理論だった。フリードマンやルーカスの理論と同様、これらの理論もまた価格は市場が均衡するよう即座に調整されるとの仮定――ケインジアンの理論との根本的に異なる――に立脚していた。しかし新古典派の先輩たちとは異なり、リアルビジネスサイクル理論では、予期されていないかどうかに関わらず、経済変動の説明からはいかなる金融政策の役割も除外されていた。強調点は技術進歩に対するランダムなショックと、そのショックにより引き起こされる消費と余暇の異時点間の代替に移っていたのだった。

こうした新古典派経済学の3つの波の結果として、マクロ経済学の分野は次第に厳密に、そして次第にミクロ経済学のツールに結び付けられるようになった。リアルビジネスサイクルのモデルは、アロー・ドブリューの一般均衡理論の限定された動学的な実例だった。実際にこの点は彼らのウリのひとつだったのだ。やがてこの研究の支持者たちは、景気循環は貨幣的な力ではなく実物的な力により生じている、という想定から後退し、この研究の方法論的な貢献を強調し始めるようになった。今日では、新古典派の伝統から来たマクロ経済学者たちの多くは、ケインジアンの価格硬直性の仮定について、その仮定が適度に厳密な、経済主体が合理的かつフォワード・ルッキングであるモデルに組み込まれている限り、喜んで敗北を認めている。こうした強調点の変化のために、専門用語が発達して、現在ではこの分野の研究はしばしば「dynamic stochastic general equilibrium」理論という名前で呼ばれている。しかしどうやら話を先に進めすぎたようだ。

新古典派の3つの波が最初に海岸に打ち寄せてきた1970年から1980年当時、彼らの目標のひとつは、古いケインジアンマクロ経済学的モデルを科学とエンジニアリングの両面から批判することだった。彼らの論文である「After Keynesian Macroeconomics」(ケインジアン経済学の終了後)において、サージェントとルーカス(Sargent and Lucas, 1979)は次のように書いている。「政策にとって重要な事実は、ケインズ政策の提言には、非ケインズ政策の提言と比較しても科学的によりしっかりした基礎があるわけではないということで、ついでに言えば、非経済学的な提言と比較しても同様だ」。サージェントとルーカスは、ケインジアンのエンジニアリングは欠陥のある科学に依拠していると考えていたのだが、しかしまた(1979年頃の)新古典派には、まだワシントンへ持って行けるようなモデルの準備ができていないことも知っていた。「現在存在している最も優れた均衡モデルは、より優れた、願わくば政策の形成に実際に使用できることが証明できる、将来のモデルのプロトタイプであると我々は考えている」。彼らはまた大胆にも、そうしたモデルは「もし幸運であれば10年以内に」利用可能となるだろう、と予想している。彼らの望んだ通りに予想が成就したかどうかについては、後にまたふれることにしよう。

上に挙げたいくつかの引用が示唆する通り、新古典派を推進していた人々は、彼らの意図において遠慮がなく、また達成したことにおいて謙虚でもなかった。ルーカスは、より一層無遠慮な評価を1980年の「The Death of Keynesian Economics」(ケインジアン経済学の死)という論文で行っている。「40歳以下の、自身や自分の研究を「ケインジアン」と認識している経済学者には良い点を見つけることはできない。実際、人々はもし「ケインジアン」と呼ばれたらむしろ気分を害する。研究会議ではもはや誰もケインジアンの空理空論を真剣に受け取らず、聴衆はひそひそくすくすし始めるのだ」。けれども、ルーカスが幸せな気分でケインズ経済学への追悼文を書いていたちょうどそのとき、経済学界はまさに「新ケインズ派」世代を喜んで迎え入れようとしていたところだったのだ。

【続く】