科学者とエンジニアとしてのマクロ経済学者(4)

【この文章は、N. Gregory Mankiwの"The Macroeconomist as Scientist and Engineer"を勝手に翻訳したものです。段階的にアップロードしていく予定です。内容などおかしなところがあれば、メールもしくはコメントにてご指摘いただければ幸いです】

ケインズ派(The New Keynesians)

ケインジアンの方法論を景気循環に適用していた経済学者は、長い間ミクロ的基礎付けの問題に打ち負かされ続けていた。実際のところ、「マクロ経済学」という用語を使ったもっとも初期のもののうちのひとつであるクラインの1946年の論文(Klein, 1946)は次のように始まっている。「新しく開発された経済システムに関する数学的モデルの多く、特に景気循環理論に関するものは、すべての経済学的な行動の理論の基礎を形成すべき個々の家計や企業の行動に、かなり漠然としか関連付けられていない」。すべての現代の経済学者は、ある程度までは古典派といえる。我々は皆、生徒たちに、最適化、均衡、市場の効率性について教えているのだ。この2つの経済についての考え方――一方はアダム・スミスの見えざる手とアルフレッド・マーシャルの需要供給曲線に基き、もう一方はケインズの不十分な総需要に苦しむ経済の分析に基いている――をどのように調和させるかは、マクロ経済学が個別の分野として始まって以来の、途絶えることのない深刻な課題だった。

サミュエルソン、モジリアーニ、トービンといった初期のケインジアンたちは、ときに「新古典派-ケインジアン総合」(neoclassical-Keynesian synthesis)と呼ばれるもので、これらの考え方を調和させることができたと考えていた。こうした経済学者たちは、スミスとマーシャルの古典派の理論は長期では正しいが、ケインズが描写したような短期では見えざる手は無力となり得る、と信じていたのだ。いくつかの価格――特に労働力の価格――の調整は緩慢に時間をかけて行われるため、期間が問題となった。初期のケインジアンたちは、古典派のモデルは経済が徐々に発展していった結果としての均衡を記述しているが、ケインジアンのモデルは価格を所与とした場合の任意時点の経済のより良い説明を提供していると信じていたのだ。

新古典派-ケインジアン総合は首尾一貫としていたが、しかしまた漠然としており不完全でもあった。そうした欠陥に対して、新古典派の経済学者たちが総合を棄却して一から新たに始めようと対応していた頃、新ケインズ派の経済学者たちは、そこにはまだ保存しておくものがあると考えていた。彼らの目的は、ミクロ経済学の道具を使って、初期のケインジアンたちによって達成された不安定な妥協案に、より一層の精確さを与えることだった。言ってみれば、新古典派-ケインジアン総合は1940年代に建てられた家のようなものだ。新古典派はその時代遅れのシステムを見て取り壊すしかないと結論し、一方で新ケインズ派は古き良き職人技を賞賛して大規模修繕の良い機会ととらえたのだ。

正しくも「新ケインズ派」と名付けられた研究の最初の波は、一般不均衡(general disequilibrium)に関するものだった(Barro and Grossman, 1971; Malinvaud, 1977)。これらの理論は、一般均衡分析の道具を使って、市場が均衡しない場合の資源配分の結果を理解することを目的としていた。賃金と価格は所与とされていた。ある市場で均衡が達成しなかった場合、関連した市場の需要と供給にどのように影響があるか、が焦点だったのだ。これらの理論によると、どの市場の供給が過剰になり、どの市場の需要が過剰となるかによって、経済はいくつかの形態に分類できるという。もっとも興味深い形態――我々が不況期に観察することに最も良く一致するという意味での――は、財市場と労働市場が共に供給過剰となる、いわゆる「ケインジアン」形態だ。このケインジアンの形態では、そのときの賃金水準における雇用への需要が完全雇用を実現するにはあまりにも少ないために、失業が生じる。雇用への需要がなぜ少ないのかというと、時価水準で企業が望むだけの商品を売ることができないためためだ。そして、企業の商品への需要が不十分なのは、多くの顧客が失業しているからだ。景気の後退や恐慌は不十分な需要の悪循環の結果であり、そして需要への刺激は乗数効果を発揮し得るのだ。

ケインズ派の第二の波の研究は、市場均衡を前提としないモデルにおいて合理的期待の概念をどのように利用し得るか、について明らかにすることを目的としていた。ある面では、この研究は合理的期待にも関わらずシステマティックな金融政策がどのように経済を安定化させ得るかを示すことで(Fisher, 1977)、サージェントとウォレスの金融政策は無効であるとの結論に応答するものだった。またある面では、この研究は経験的に妥当なインフレーションの動学を見つけようという願望に動機付けられていた(Taylor, 1980)。この研究のアキレス腱は、経験的には正当化され得るとは言え、ミクロ経済学の原理とはとても一致し難い労働契約形態を仮定していたことだった。

非常に多くのケインジアンの伝統が、賃金と価格が市場で均衡することに失敗するという仮定に依拠していたため、新ケインズ派の第三の波の研究は、なぜそれが起こるのかを説明することを目的としていた。様々な仮説が検証された。それらは、企業は価格を変更する際に「メニューコスト」に直面しているのだ、というものであったり、企業は労働者の生産性を向上させるために均衡レベルよりも高い「効率的賃金」を支払っているのだ、というものであったり、また賃金と価格を設定している人々は完璧な合理性から逸脱しているのだ、というものであったりした。マンキュー(Mankiew, 1985)とアカロフとイェレン(Akerlof and Yellen, 1985)は、企業が市場支配力を持つ場合には価格の調整に関して個人と社会の費用便益予測が大きく乖離するため、社会的には犠牲が大きい場合であっても、硬直価格における均衡は個人にとっては合理的(もしくはほとんど合理的)となり得ることを明らかにした。ブランシャールと清滝(Blanchard and Kiyotaki, 1987)は、この個人と社会のインセンティブの乖離の一部は総需要の外部性の結果であることを示した。つまり、ある企業が価格を下げた場合には実質貨幣残高が増加するので、ひいてはすべての企業の製品への需要も増加することになるのだ。ボールとローマー(Ball and Romer, 1990)は、実質価格と名目価格の硬直性には非常に強い相補性があるため、相対価格の変化を避けようとするいかなる誘因も、名目価格変化の遅延を悪化させるだろうことを立証した。

振り返ってみると、こうした様々な新ケインズ派の貢献は、当時思われたよりも、また実際に貢献した人々が考えていたよりも、ずっと相互に関連していて相補的なものだった。例えば、初期の一般不均衡に関する研究を袋小路だと見なすことには心を惹かれるものがある――所与の価格を仮定することで自ら消滅の種を蒔いた研究プログラムだ。そして実際、今日ではこの研究は文献リストではめったにお目にかからない。けれどもまた、価格が供給と需要を均衡させるよう即座に動くことがない場合に経済はどのように働くのか、についての関連した研究には、進展を見ることができるのだ。

例えば、新ケインズ派経済学の第一と第三の波の間には、興味深い、しかしほとんど注目されることのない関連がある。具体的には、第三の波を、第一の波で強調されたケインジアン形態の重要性を立証したものと見なし得る、ということだ。企業が市場支配力を持つ場合には、価格を限界費用よりも高く設定するために、企業は常に時価でより多くを売ろうと望むことになる。つまり、もしすべての企業がある程度の市場支配力を持つ場合、財市場は通常は過剰供給の状態にあることになるのだ。この財市場の理論は、効率賃金モデルのような均衡を上回る賃金を伴う労働市場の理論としばしば組み合わせられる。この場合、「ケインジアン」形態の一般的な供給過剰はただのひとつの可能性ではなく、経済における典型的な状態となるのだ。

私の判断では、結局のところこれらの三つの新ケインズ派の研究の波は、短期におけるマクロ経済的な事象での見えざる手の働きの失敗に、首尾一貫したミクロ的な理論を付け加えたことになる。我々は、価格に硬直性がある場合にどのように複数の市場が相互に作用しあうか、期待がどのような役割を果たし得るか、そして価格設定者が価格を変化させるかどうかを選択する際に直面するインセンティブについて理解している。科学としてみた場合、この研究は大きな成功をおさめた(とはいえ、この研究の参加者として、私は完全に客観的であると主張することはできないが)。この研究は革命的ではなかったが、そうあろうともしていなかった。むしろ反革命的だったといえる。その目的が、新古典派の猛攻撃から新古典派-ケインジアン総合のエッセンスを防衛することにあったのだから。

この研究はエンジニアリングとしても成功したといえるだろうか?それは政策立案者に、景気循環により上手く対処する手段を提供しただろうか?この判断はあまり肯定的なものにならないに違いない――これについてはすぐ後にまたふれよう。

しかし特筆すべきは、気質として、新古典派の伝統の中で研究している経済学者よりも、新ケインズ派マクロ経済学のエンジニアになりたがっていたことだった。新古典派一派の先導者たちの中で、学究的世界を離れ国政の重要な職に就いた者は、(私の知る限り)一人もいない。対照的に、新ケインズ派のムーブメントは、これに先立つ世代のケインジアンたちと同様、象牙の塔を出て数年を国家の首都で過ごした人々でいっぱいだ。そうした例として、スタンリー・フィッシャー、ラリー・サマーズ、ジョセフ・スティグリッツ、ジャネット・イェレン、ジョン・テイラー、リチャード・クラリダ、ベン・バーナンキ、そして私が挙げられる。最初の四人はクリントン時代にワシントンへ行き、後の四人はブッシュ時代だ。新古典派と新ケインズ派を分け隔てるものは、基本的には、政治的な右派・左派ではない。それはかなりの程度まで、純粋な科学者と経済学的エンジニアの違いによるものなのだ。

【続く】