帰国雑感

ということで昨日南の島より帰ってきました。まだリハビリ中なり。アタマの中でお魚が舞っております。ぽやーん。

痛恨の極みは結局投票できなかったこと。成田から直接投票所へ行こうと思っていたら、成田上空天候不順&燃料ショート、ということでいったん羽田で給油。3時間近くロスして結局時間切れ。こんなことなら期日前投票しとくべきだったと猛省しております。あれこれ書いたのに無責任の極みですな。あーあ。

といってもどこに/誰に投票するかは全然決めてなかったんですけどね。奇しくも田中先生の「家で寝てろ」というアドバイスを実践してしまったことになります。実際には飛行機の中で寝てたわけですけど。わはは。ということで気を取り直して以下更に無責任に無責任を重ねて色々書いてしまおう。

自民党の大勝とあそこまで高い投票率には正直かなり驚きました。内容なんかどうでもいいからとにかくわかりやすく、という小泉首相の戦略が完全に功を奏したわけですな。bewaadさんの「プロメテウスの火」というのはまさに言いえて妙というか、来るべきものが来ちゃったなあというか。まあ時間の問題だったのでしょうけど、その時間を早めたのは間違いなくこの十数年の不景気だろうなあ。

こうしたやり方も、せめて政策のパッケージが争点として提示されていればまだ救いはあるのだけれども(というよりもそうならないとそれこそ救いようがない)、それは野党側が同じ戦略を同じくらい有効に使いこなせるようになってから先の話だろうからそうとう時間がかかるだろう。それまでは単なるわかりやすさ優先のどうでも良い争点を軸とした選挙が続きそうだと思うとやれやれという感じでいっぱいですよ。

結局振り返ってみると、郵政民営化ってのは「構造改革」のわかりやすい一例として挙げられただけなんだろうなあと。どうして民営化が必要かというと、単に「改革」が必要だからでそれ以外のまともな理由なんかない。で、どうして「改革」が必要かというとこれが更にわけがわからない。

具体的に何の問題を解決するためにその「改革」が必要か、きちんとした説明見たことないんですけど気のせいじゃないですよね。というよりは本来の大問題がそれとはほとんど関係ない小問題に分割されてしまって、その小問題を解決するための「改革」だけが叫ばれているというか。

たぶん「構造改革」を今このタイミングで最優先に重要な課題と考えるかどうかは、現在の日本が抱えている問題をどのような小問題に切り分けるかの見解の相違の問題なんだろう。で、その見解の相違の背景には、問題に対するアプローチの違いがあり、そこには先日書いた「政治と経済はアカデミックな議論の対象外」という空気がどよーんと横たわっている気がしてならない。気がする。気のせいですかそうですか。

いやでも何かが解決されている/されつつある気がする、しかも「改革」によって!ばんざーい!、というのは確かに気分がスカッとするだろうけど、でも結局は気分の問題にしか過ぎないわけですよ。感情ってのは怖いなあ。その感情がこうして利用されているのを見るのはもっと怖いわけですけど。南無南無。

ということで昨日の日経で紹介されていた「ナチ・ドイツと言語」(ASIN:4004307929)をざっと読んでいるのだけどこれがなかなか興味深い(ちょっと文体が思想が好きすぎる気が僕にはするけどw)。ナチス(というかヒトラー)の政治的宣伝の基本原理について、例の「我が闘争」から引いてこのようにまとめられています(4ページ)。

「広範な大衆に働きかけ、少数の論点に集中し、同一の事柄をたえずくり返し、反論しえない主張になるまでテキストを確実に把握し、影響が広がることを望みながら辛抱強く忍耐すること」。

ここには、大衆の情緒的な感受性にこたえて、論点を黒白図式で《単純化》して示すこと、それを《くり返し》訴えつづけること、断固とした口調で大胆に《断定化》することによって、ザッハリヒ(=即物的・客観的な)議論の代わりに確信させようとする手法が要約的に示されている。

すぐ次のページにはナチ党がドイツ国民の支持を得た背景についてこんな分析が(5ページ)。

ナチ・ドイツの《第三帝国》は、ヴァイマル共和国の政治的・経済的な失敗から生まれたというだけではない。むしろ、敗北と苦難の中から、ふたたび人びとに名誉感情と自己意識とを回復してくれる《救済者》にたいする民衆的待望から生まれてきたのであった。そこでは《救済》は、古い腐敗した世界が没落し、腐敗をもたらした《悪い敵》が絶滅させられることによってのみ可能になる、と信じられた。

bewaadさんのこの分析を彷彿とさせますな。《悪い敵》を「抵抗勢力」や「官僚」に読み替えれば現状ほとんどそのまんまというか。ま、小泉首相を《救済者》とみなすかどうかはむしろこれからにかかってる悪寒がしますけど。南無南無。

で、この本、以降は《救済者》となったヒトラー自身と彼を取り巻く環境(映画、教育、ジョーク、夢)によるヒトラー絶賛の嵐の描写が続くわけですけど、ある意味教科書的にも読めちゃうところが怖い。ここまで似てこないことを祈るばかりであります。南無南無。

本と言えば南の島へ持っていった財政の教科書は左巻き的記述が多すぎて頭にきてプールサイドへ置いてきちゃいました。わはは。何でも政府と企業と米国のせいにすんなよと小1時間ですよ。こんな本を選んでしまったことを深く反省する次第。本は急いで選んじゃダメですね。ていうかまだこんな本が普通の顔をして売ってることに驚きを禁じ得ないわけですが世の中そんなもんなんでしょうか。南無南無。

ということで南の島ではもっぱら「ルービン回顧録」(ASIN:4532165156)を読んでました。これ無茶苦茶面白くて大お勧めです。経済と金融市場(国際マクロ経済、債券相場、裁定取引株式投資等)、政治、人生と仕事に対する姿勢、と1冊で3度おいしい。必読です。

IMFを米財務省の下部組織のようにこき使うことになんの疑問も感じてなさそうだったり、アジア通貨危機やロシアのデフォルト時におけるIMFの対応を(若干の留保付ながら)原則正しいと考えていたり(そのためクルーグマンスティグリッツとは見解を異にしている)、またクリントン政権初期における日米貿易「摩擦」に関して問題は日本にあると考えていたりと、納得行かない部分は多々あるんですけどね。

なんとなくルービンに共感してしまうのは、人生に対する見方に近いものを感じるからかもしれないなあ。例えばこんな感覚(86ページ)。

「いま、ここ」は非常に重要である一方、時空間を全体で見ると、究極的な意味でこの重要性が薄れていく。【中略】今日の出来事が、10万年後にはどれほど重要な意味を持つだろう。こうした二重性を心のなかで受け入れたおかげで、何であれ自分がしていることに懸命に打ちこむ一方で、その気になればいつでもまったく別の人生も選べるのだという一種のものの見方と感覚を持ち続けることができた。

いやいや、これですよこれ。人によっては無責任ともとられそうなこの感覚によって救われている、という記述がこの本では随所に出てきて、大変興味深い。

あとはもちろん、経済学的に正しいことが議会や有権者になかなか受け入れられない、という苦悩もどっかで見た気がして他人事とは思えない(笑)。結局は「政治的」に物事を進める必要があるわけだけれども、政治の前にまず経済的な分析がある、という点が強調されているのが素敵です。

金融関係でちょっとした誤訳が目に付くのが残念だけど(ロング・ショート戦略を長期と短期のポートフォリオの組み合わせとしたり。正しくは買い持ちと売り持ちのポートフォリオの組み合わせ)、まあまり大勢に影響はないでしょう。

・・・うーむ、気付いたらなんか無駄に長くなってるなあ。相変わらずまとまりありませんが知恵熱が出てきたのでこの辺で。ではでは。