義務としてのボランティアwについて

韓リフ先生のところ経由。なにこれ?

国公立大を9月入学に
 「安倍政権」で検討

 安倍晋三官房長官は30日、首相に就任した場合に政権公約の柱として掲げる「教育再生」の一環として、国公立大学の入学時期を現在の4月から9月に変更し、高校卒業から大学入学までの間にボランティア活動に携わることを義務付ける教育改革案の検討を始めた。

source: 東京新聞http://www.tokyo-np.co.jp/flash/2006083001005554.html

論点としては僕が見たところ以下のものが挙がっている感じですね。

まず「ちょwwwそれボランティアじゃないしwww」というもの。bewaadさんのところご参照。

自発性の発露の強要の気持ち悪いところはこれが突き詰めると特攻に繋がるところでして、アレが本当にお国のため、家族のための本人の自発的な行為であると信じることができるおめでたい人では僕はあいにくないので、って考えすぎですかそうですか。だといいんですけど。

次にこれは事実上の授業料値上げに等しく、大学進学の敷居を上げ、また更には国公立大と私立大との差を縮める(もしくは私立大により有利にする)というもの。飯田先生のところご参照。

アレですか、もしかして大学入学者を減らしたかったり、国公立大をリストラしたかったりするんですかね、安倍さんは。格差是正と反対方向を向いている気がするんですが気のせいですかそうd(略)

本家探しも面白いトピックだと思います。再び韓リフ先生のところご参照。やはりシバキアゲ主義との類似性が気になるところであります。

個人的なネタとしては、少子化が進行しているとは言え、毎年2〜3万人の予備学生を、「ボランティア」としてどこがどう受け入れるのかが気になるところ*1

まさか地元企業にインターンとして働かせる、じゃないと思いますけどどうなんですかね。使えない予備学生が来たって邪魔なだけだと思うんですけど。というかいりませんようちは。タダで働かせたって準備やら監督やらで確実に赤字です。それと非正規雇用者の圧迫にもなりますねこれ。その筋の人たちは気にならないんでしょうか。

ってこのタイミングで自衛隊がボランティア大募集!とか言い出したら僕は海外へ脱出しようと思っているのですが考えすぎですかそうですか。わはは。

*1:source: 文部科学省 平成17年度国交私立大学・短期大学入学者選抜実施状況の概要。ボランティアを強制されるw対象が大学入学者なのか大学受験者なのかによって数字は変わるでしょうが、まあご参考ということで。

所有について考えることの面白さについて

というわけで早速「所有と国家のゆくえ」を買い求めて優先度高めで読んでいるわけですが、面白いです。まだ第1章しか読めてませんけど。

「『資本』論」は前半読んだところでザセツしていたわけですが(すいません)、こちらを先に読んでからの方が稲葉先生の問題意識がはっきりしてわかりやすいんじゃないかと思いました。

で、所有についてだけど、最初は何でここまでさかのぼって考える必要あるのかなーと思っていたけど、確かにこれは面白い。

例えばここにタバコの箱がある。これは僕が買ったものだから僕のものだ。

普通に生活している限り、このことについて疑問を持つことはない。というかこんなことに疑問を持つのはかなりアレだ。僕が買ったものは(譲渡しない限り)僕のものであってこれは自明に思える。でもちょっとさかのぼっていくと、確かに自明かどうか怪しくなるのだな。

僕が買ったタバコが何故僕のものかというと、僕のお金で買ったからだ。僕のお金が何故僕のお金なのかというと、僕が働いて得たお金だからだ。

ここまでは自明とされているだろう。でも更に進むとどうか?

僕が働いて得たお金が何故僕のものかというと、僕の身体が働いて得たものだからだ。僕の身体が働いて得たものが何故僕のものかというと、僕の身体は僕のものだからだ。

ここまででもちょっとしつこいけどぎりぎり自明かな。このポイントで考えを止めてしまうのが、稲葉先生によるとロック的な所有の考え方らしい(間違ってたらすみません)。

でもこの考え方は、更に進めると実は破綻してしまう。僕の身体は僕のものだけれども、僕はこの身体を手に入れるために何もしていないからだ。

僕の身体が存在するために何かをしたのは僕の両親だ。ということは、さっきまでの「自分の身体がなんとかして得たものは自分のもの」という考え方を所有の起源とするならば、僕は両親のものになってしまう。

更に、僕の両親はそのまた両親の所有となり、この関係は有限ではあるが考えてもしょうがないくらい繰り返しさかのぼって適用されることになる。なんと全人類の全資産はアダムとイヴのものだったのだ!じゃーん。

もちろんこれはおかしい。では仏教徒はどうなるのかとかいう話じゃなくて、そもそも所有という概念は所有する者と所有されるモノがあってはじめて意味があるのだけれども、この考え方では所有する主体は人類の始祖だけ、他は全部ひっくるめて所有される側になってしまう。

しかし血縁を基礎とした小規模な集団においてはこの所有のロジックが働いている可能性もあるな。誰かこれ敷衍しないかな。閑話休題

要するにロック的な所有の考え方は、突き詰めると近代的な個人と真っ向から対立する概念となってしまい、実は破綻していると。

そんじゃどうしたらいいの、というところで、稲葉先生は立岩さんの論に注目したと。つまり他者の存在を通して所有を基礎付けるわけですな。

これは僕は立岩さんの本を読んだことが無いので想像だけれども、恐らく次のような論理だろう。つまり、所有の根っこを「自分以外の世界中の誰もが所有していないものは自分が所有しているものとみなして良い」とするわけ。

すると、そういったものは(奴隷制がある社会でない限り:だから稲葉先生の言うとおり奴隷制の研究は必要なんだろう)「僕自身」しかない。

このように、所有の基礎を他者の存在に依存して、いわば消極的に定義することで、僕がなんかしたことで得たものが僕のものになるのは、僕自身は僕以外の誰も所有していないからだ、といえることになる。これでロック的な考え方を延長した、所有の起源を延々とさかのぼらなくてはいけない呪縛から開放されると。

こう考えると、何故自殺はいけないのか、ということにも答えを与えることができるように思う。ロック的な発想だと、自分を所有しているのは自分自身だから、自分の所有物たる自分をどうしようとそれを咎めるロジックはないように思える。

しかしこの立岩さん的(と僕が理解というか想像している)ロジックでは、すべての所有の基礎は他者の存在に依存している。

だから、ここで自殺を許容してしまうと、すべての基礎である他者の存在が危うくなってしまう。自分は、自分自身により積極的に自分のものとなっているのではなく、他者の存在により消極的に定義されているのであり、これは社会にとっては自明ではなく、いわば「お約束」に過ぎない。

自殺を許容してしまうと、所有の起源とした他者の存在という「お約束」が揺るがされてしまう。故に自殺はよくないものである、と。




って僕は何を書いているんでしょうね。これはethicsなんでしょうか。久しぶりに違うアタマを使ったので知恵熱がでそうです。わはは。

第2章以降は、このように仮に定義された所有をベースに、それを売り買いするだけでなく貸し借りするときにどのような問題が生じるのか(自分自身を貸し借りするとはどのようなことなのか)、という方向で話が進むのでしょうか。楽しみです。

ちなみに

立岩さんの考えている、結果の平等を目指した国家による分配については、第1章のみを読む限り、先日書いた批判がそのまま当てはまってしまいそうに読める。

奇しくもラスカルさんも同じ点を挙げてらっしゃる*1のだけれど(すみませんコピペさせていただきました);

現在の技術の水準と働ける人の数とを考え合わせたとき、いったい、どれほどの一人当たりの労働が必要かと考えるなら、少なくとも現状に上乗せをするほどのものは不要であると考えられる。より多くの人に働いてもらいたいなら、労働を分割して、それを実際に可能にすることが求められる。

「所有と国家のゆくえ」 p.61-62

この考え方の問題点は先日書いたとおり、それを実際に行った場合には、現在の技術の水準も産出の水準も維持できないところにある。

更に根が深いところには、Fellow Travelerさんがコメント欄で指摘されている通り、誰が「現状に上乗せをするほどのものは不要であると」判断するのか、とう問題がある。

人が何を消費するべきかを別の誰かが判断できるのだろうか?それは「贅沢は敵だ」と何が違うのか?僕にはわからんのだけれどそれは先へのお楽しみということで引き続き読んでいきたいと思う所存であります。

*1:ちなみに小田中先生もこのタイミングで本書に触れておりなんだか楽しい。他の人が同じタイミングで同じ本を読んでいることを知るのは何故楽しいのだろう。だからみんなベストセラーが好きなのかな?僕の場合読むのが遅いのでいつも変なタイミングで変な本を読んでるわけですけどorz。