72年前の今日 第三日

「西園寺公と政局」より

【承前】


興津では二十七、八日は東京と電話で連絡をとつてゐたが、東京の方はなかなか進展しない。それから静岡県の方では、隣の愛知県の豊橋にゐる軍人と、三島にゐる橋本大佐あたりとの間に多少連絡があり、警察はいろんなデマに非常に注意してをつたが、軍人が数人或は十数人自動車に乗つて興津に向ふといふ報告がたびたび警察に入つた。


二十八日、木戸から電話で、


「東京の方の様子は、昨日眞崎大将が行つて、総理官邸に立籠つてゐる叛乱軍の連中を説得につとめたけれども、二人ばかりどうしてもきかない。で、眞崎は『もしいよいよきかないならば、明二十八日朝八時には、自分が先頭になつてお前達を撃ち殺しに来る』と言つて帰つて来た、と軍事参議官の会議で報告してゐる。それで、二十七日の晩、陛下が阿部、眞崎両大将に謁を賜はつて、『叛乱軍をなぜ早く討伐せんか』と非常に厳しく御命令があつたやうだ。


なほ、内大臣がやられた後のことであり、或は近衛を内大臣にすることも多少考へておかねばならんから、含んでおいてくれ。この際、とても重臣会議はやれまいと世間で噂してゐるやうだが、これは公爵が御上京になつたらぜひやりたい。御上京になるかどうか。


また、陛下からは、最初、後藤内務大臣が閣僚の辞表を纏めて捧呈した時に、まづ第一に、『速かに暴徒を鎮定せよ。それまでは断じて辞めるな』といふお言葉があつた。」


と言つて来た。



西園寺公と政局 第五巻 pp. 5-6

西園寺公と政局〈第5巻〉 (1951年)

西園寺公と政局〈第5巻〉 (1951年)

木戸幸一日記より

二月二十八日(金)曇


午前七時、昨夜好転の徴ありしが、矢張り首脳部ニ名程は頑固に自説を主張し、服するに至らず、八時を期し弾圧を断行することとなれりとの情報あり。


内大臣の後任については宮内大臣より御相談あり、結局、此際は近衛公以外にはなしとの結論にて、一木議長も賛成せられし故、大臣の命により、八時半、近衛公に電話をかけ、湯浅宮内大臣面会を希望せる故至急来庁相成度旨を伝ふ。


十一時、橋本伯来庁。


十一時半、近衛公と会談す。宮内大臣より内大臣受諾の内交渉ありしが、自分は健康上御引受けは困難なりとのことなり。猶、打割りて懇談の結果、主治医宮川博士の意見を徴し、公より返事せらるゝことに打合す。


一時半、廣幡君より岡田首相の辞表を見る。


一時半、後藤内相、兒玉拓相、内田鉄相等と個々に会談す。財界も不安に駆られ同様の徴ありとのことにて、後継内閣組織を一日も早くせられたしとの話なり。依って暴徒の鎮圧を一刻も早く成就せられんことを希望す。


近衛公との会談の際、左の如き断片的の情報を聴く。


一、今回の事件は岡村・山下両少将、石本大佐の合作なりとの相当確実なる聞込あり。


一、石原大佐と久原の合作にて山本英輔大将を擁立せんとし、海軍側に一蹴せられたりとの説あり。


一、橋爪助教授に改革案を頻りに急ぎたる事実あり。


近衛公は三浦一平の紹介にて橋爪に会ひたることありと。


閑院宮小田原より御上京被遊こととなりたるが、御殿は立退区域なれば、何処に御仮寓を願ふか種々研究の結果、内大臣官舎に御滞在を願ふこととす。七時半、無事御着相成たり。


西園寺公御上京の場合には、宮城内に滞在を願ふこととし、次官室の一劃を提供することに打合す。


午後四時、近衛公より電話にて宮川博士の意見も往年の病気以来年数も余り立ち居らず、万一新聞等にて攻撃せる場合、医師として差支なしとは云ふ能はずとのことなり。よって宮内大臣に報告し、断念することとす。


七時半、原田より電話にて、内大臣に近衛公が健康上困難なりとすれば現宮相を之に当てゝ其の後任を考へては如何、ロボットは此際不可なりとの御意見の様なりとのことなりき。


午後六時五十分頃、岡田総理大臣参内、拝謁す。重大なる事態惹起の御託を言上、骸骨を乞ひ奉る。


陛下には時局重大なる折柄何分の沙汰ある迄励精せよとの御言葉あり。右に対し岡田首相は時局は余りに重大であります故、謹慎致し度と存じますと言上す。


陛下は右に対し何の御言葉もなかりき。


右につき内閣側にては、陛下の御真意は岡田の辞意を御容認被遊し意味と解すべきや否やにつき疑義あり、問合せ来りたるが、岡田の言葉にて励精せよとの御沙汰は消へ得べきにあらざれば、右は当然職務を継続するを当然とすと解せしも、尚、明にする為、廣幡侍従次長より右の趣を御伺ひ申上たるに、右の解釈の通りなりとの御意なりき。


岡田首相参内せしを以て、後藤内相の臨時代理を解かる。然るに閣僚の去二十六日に提出したる辞表は「今回岡田内閣総理大臣重大ナル故障ニ因リ職務を執ルコト能ハサルニ至リタルヲ以テ」云々との理由なる故、岡田首相参内せし今日辞表提出の理由は消滅したることとなる、因って更に岡田首相の手にて閣僚の辞表を取纏め捧呈を必要とすと認め、大金侍従より此旨を内閣側に伝へ連絡をとる。其結果、岡田首相は十時五十分頃参内、閣僚の辞表を更めて捧呈せり。


廣幡より左の如き内話あり。


今朝、陛下は閣臣の辞表を持参せよとの御命令にて持参せしに、陸軍大臣の辞表が他の閣僚の辞表と同一辞句なるを御覧あり、陸軍大臣は是で責任が尽せりと思ふのか、こんな考へだから宜しくないとの意味の御言葉あり、何と申上様もなく恐懼せりと。


各皇族の御態度につき廣幡に御感想を御漏になり、参考に総裁にも伝へよとのことなりしと。


高松宮が一番御宜しい。秩父宮五・一五事件の時よりは余程お宜しくなられた。梨本宮は泣かぬ許りにして御話であった。春仁王は宜しい。朝香宮大義名分は仰せになるが、尖鋭化して居られて宜しくない。東久邇宮の方が御判になって居る。



木戸幸一日記 上巻 pp. 467-468

木戸幸一日記 上巻

木戸幸一日記 上巻

本庄日記より

騒乱ノ四日間


【承前】


第三日(昭和十一年二月二十八日)


一、午前七時、伏見軍令部総長宮殿下参内アリ、武官長ニ対シ、二十七日ニ於ケル皇族御会合ノ模様及閑院宮殿下ノ御転地先、小田原ヨリ至急御帰京アラセラルベキ必要ヲ説示アラセラレタリ。


依テ、杉山参謀次長ノ来府ヲ乞ヒ、右皇族ノ意嚮ヲ閑院宮殿下ニ伝フベク依頼ス。


杉山参謀次長躊躇シアリシ折柄、秩父宮殿下ヨリモ時局重大ノ際ナレバ、多少ノ無理ヲ押シテモ、御帰京遊バサルル様、直接御通知アラセラレシ趣ニテ、閑院宮殿下ニハ、此日遅ク御帰京遊バサレタリ。


ニ、午前十時、梨本宮殿下参内、拝謁ノ上、真摯熱誠ヲ籠メ、今次事件ニ付御託アラセラル。後チ、


陛下ニハ、武官長ニ対シ、


自分ハ、梨本宮殿下ノ真面目ナル御態度ニ全ク感激シタリ。各将校ガ悉ク、梨本宮ノ如キ心持ヲ体シ呉レシナラバ、此ノ如キ不祥事ハ発生セザリシモノヲト、御歎ジアラセラレタリ。


三、此日、朝ニ至リ、行動部隊ノ将校ノ態度一変シ、又々現隊復帰ヲ肯ゼズ。


前晩、真崎大将等、三軍事参議官ノ説得ニテ、行動部隊ノ将校等ハ、部下ノ部隊ヲ原隊ニ帰スベク決意セシ模様ナリシニ、夜半ニ至リ、電話ニテ首相官邸ニアル、右等将校ニ電話指令セシモノアリ(北、西田等ナリト噂セラル)。為ニ、彼等将校ノ態度一変セリト云フ。


午前十時、杉山参謀次長参内シ、愈々武力行使断行ヲ奏上セントセシトキ、又々戒厳司令部ヨリ、模様一変ノ為メ、暫ク武力行使ヲ見合スベク通知アリ。


午前十一時頃ニ至リ、戒厳司令部ハ、一般市民ノ立退キ区域及時刻等ノ処理ヲ指示ス。


正午頃、戒厳司令部ハ、愈々奉勅命令ヲ行動部隊将校ニ伝ヘ、速ニ最後ノ決心ヲ為シ、軍隊ヲ原隊ニ復帰スベク促ス所アリタリ。


而ルニ、彼等将校ノ或ルモノハ、該奉勅命令ハ徹底セザリシト云ヒ、或ルモノハ、機関説信奉者ノ奉持スル命令ハ随フノ要ナシ抔種々辞ヲ設ケテ、躊躇決スル所ナカリシガ如シ。


午後三時、杉山参謀次長参内、帝都警備兵力ノ増加、及参謀総長ノ戒厳司令官ニ対スル区処権ニ付奏上シ、御裁可ヲ得。


午後四時半、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官ト共ニ参内、武力行使ハ時間已ニ遅ク、明日ニ延期スルノ外ナキ旨ヲ奏上ス。


四、此日午後一時、川島陸相山下奉文少将、武官府ニ来リ、行動将校一同ハ大臣官邸ニアリテ自刃罪ヲ謝シ、下士以下ハ原隊ニ復帰セシム、就テハ、勅使ヲ賜ハリ死出ノ光栄ヲ与ヘラレタシ、此以外解決ノ手段ナシ、又第一師団長モ部下ノ兵ヲ以テ、部下ノ兵ヲ討ツニ耐ヘズト為セル旨語ル。


繁ハ、斯ルコトハ恐ラク不可能ナルベシトテ、躊躇セシモ折角ノ申出ニ付、一応伝奏スベシトテ、


御政務室ニテ右、


陛下ニ伝奏セシ処、


陛下ニハ、非常ナル御不満ニテ、自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使抔、以テノ外ナリト仰セラレ、又、師団長ガ積極的ニ出ヅル能ハズトスルハ、自ラノ責任ヲ解セザルモノナリト、未ダ嘗テ拝セザル御気色ニテ、厳責アラセラレ、直チニ鎮定スベク厳達セヨト厳命ヲ蒙ル。


固ヨリ、返ス言葉モナク退下セシガ、御叱責ヲ蒙リナガラ、厳然タル御態度ハ却テ難有ク、又条理ノ御正シキニ寧ロ深ク感激ス。


午後二時半、第一師団司令部ニアリシ山口大尉ヨリ、武官府宛電話ニテ、事変以来、連隊副官ノ如キ地位ニアリテ、働キアルコト、及ビ行動将校等ノ考ヘガ、縷々変転セルコトヲ述ベタル後、皇軍相討ツノ失態ナカラシメンガ為メニハ、彼等最後ノ場合ニ勅使ヲ給フノ一事アルノミトテ、尽力ヲ請ヒシモ、絶対不可能ナリトテ諭シテ、電話ヲ絶チタリ。


午後三時、参謀次長拝謁ノ後チ、


陛下ニ対シ、曩ニ、伝奏セシ行動将校等自殺ノ際ニ、勅使ヲ賜ハリタシ云々ハ、自刃ノ状況検視ノ意味ナリ、ト訂正ヲ願出デ置キタリ。


又、午後四時半、参謀次長、戒厳司令官拝謁ノ後チ、


陛下ヘ、昨今陸軍ハ大命ヲ殊更ニ奉ゼサルモノナリトカ、或ハ、軍政府ヲ樹立セントスルモノナリトカ、風評スルモノアリ。


陛下ノ陸軍ヲ、誣ユルノ甚シキモノニシテ、同時ニ、現事件ヲ速カニ、且ツ、円満ニ解決セントスル、陸軍ノ努力ヲ無視スルモノナリトテ、一般ノ空気ト、誤解ノ酷ナルヲ訴ヘシトコロ、其刹那、感極ツテ覚ヘズ涕泣言葉出デズ。


陛下ハ、其儘入御アラセラル、暫クシテ、。


陛下より更ニ御召アリ。武官長ハ泣ヒテ、陸軍ニ対スル誹謗ヲ訴ヘシガ、兎ニ角、速カニ解決セザレバ、容易ナラザル結果ヲ招来スベキガ故ニ、武官長ノ所感ヲ、軍事参議官ニ伝ヘ、且ツ、速カニ、事態ヲ収拾スベク取リ計ヘト仰セラル。


之ニ於テ、軍事参議官代表者ノ来室ヲ求メシニ、荒木大将参リ、早速前記ノ次第ト御恩召シノ程ヲ伝ヘシ処、同大将モ、奉勅命令ノ出デシ以上、最早実力行使ノ外ナシト答ヘタリ。


五、午後四時、岡田総理無事ナリシトテ、迫水秘書官ニ伴ハレ参内、拝謁、恐懼ニ耐ヘザル態度ニテ、謹ンデ御託ヲ申上グ。


六、此日午後、宮中ニ秩父宮殿下、高松宮殿下ヲ始メ、伏見、梨本両元帥宮殿下、朝香宮東久邇宮殿下其他各宮殿下参内、御会合、各種情報ヲ聴取ノ上、相伴ハレ宮城堤上ヨリ、行動部隊占拠ノ状況ヲ視察アラセラレタリ。



昭和史探索 3 pp. 275-279

昭和史探索〈3〉一九二六‐四五 (ちくま文庫)

昭和史探索〈3〉一九二六‐四五 (ちくま文庫)

高松宮日記より

二月二十八日


陸軍の方は中々片づかず、併し騒擾はあの場面では拡大せぬらしいので通学す。昼、秩父宮より電話にて皇族集合の件は伏見宮にお話しせるところ、そう云ふことは早き程よしとて都合は如何にと云ふので、私は何時でもと云ふわけで、二時半―三時に宮中へ集れと云ふことになつたので、直ちにかへり参内。ぶどうの間にて伏見宮、朝融王、秩父宮朝香宮東久邇宮、梨本宮、竹田宮それに私の七人集る。今度の事件に対する皇族としての所見の統一と云ふことであつたが、別にそうしたことも定まらず、席上伏見宮は私達二人して弟としてお上をおたすけして呉れと仰しやつて、御自分も感泣なさつた。そんなことは私も始めてゞあつた。


夕食をたのむで二一〇〇頃までゐて皈る。



高松宮日記 第二巻 pp. 391-392

入江相政日記より

二月二十八日(金) 雪 寒 七、三〇 十二、〇〇


朝起きて見ると雪である。スキーも御出来にならないとすれば本当にいやな天気だ。朝、小出さんから電話で今日は朝の中休息して夕方出勤するやうにとの事、麹町の方はそろそろ立退を命ぜられてゐるさうだ。いよいよ始めるのだろうか。久松さんと話合ひで又行けなくなると申訳ないから少し早目に行かうかといふことになり一時半に自働車を呼ぶ。番町の二人が見える。午食を一緒にする。その帰られる時に坂の下迄行き、久松さんの乗つた役所の車に乗り移る。依然一進一退との事、皆ヂリヂリして早くやればよいにと気をもんでゐる。今日も拝謁が続く続く。夕方岡田首相の拝謁、驚いた。死んだと思つた岡田さんが出て来たのだから。でもよかつた。嬉しかつた。十一時過入浴、牧野さんと二人旧寝室に寝る。侍従、武官全部当直。



入江相政日記 第1巻 p. 55

入江相政日記〈第1巻〉

入江相政日記〈第1巻〉

下士官の演説

(二十八日、幸楽山王ホテル付近において軍人のなしたる演説要旨)


A 山田分隊(山田伍長)


新聞紙の報道に青年将校首相官邸を襲いなどと称しおるも、われわれは尊皇軍である、われわれは決して上官の命令で今回社会の賊物を殺したのではない、全軍一同が奮起したのである、われわれは今後といえども財閥軍閥元老政党等の腐敗毒物を叩き殺し、そして北満守備のため出征するのである、これら国賊を全滅せしめないで出征することは実に心配である。


われわれはかかる国賊を叩き切ることは全く上御一人をして御安神遊ばさるよう、また国家皆様も安心して生活することができるように全く国家のために出動したるものである。


これを同じ皇軍のわれわれを友軍がわれわれに向けて発砲するとは何事である。


万一発砲する場合はもとより人を殺しているわれわれである、一兵卒となるとも戦うのである。


諸君は今度のことはよく知るまい、斎藤はどうだ、頭に三十発も鉄砲弾を食らいその上首を切り落とされ頭は真っ二つになっている。


鈴木の頭にはこの山田がピストルで三発ぶちこんだ。


首相は池の中に死体を叩き込まれたのだ。


これで終るのではない、これからまだどしどし国賊は叩き殺すのだ。国家に対する国賊を皆殺しにするのが目的だ、悪いものがなくなれば良者が出て国家の政治を行うは当然だ。一日も早く悪い者を殺すのだ。国民の腹の底にある考えをわれわれが実行したのだ。


われわれの後にはなおわれらの意志を継いでくれる者があることは心中喜ばしいのである。



B 堂辻小隊長(堂辻曹長


堂辻小隊の旗を背負わしめ日本刀を持ち、半紙二枚の声明書を群集に向きて朗読す。


その内容は主として尊皇愛国の精神を説き、軍人にして財閥と通じ皇軍をして私兵化せしむるごとき国賊はこれを排除し、その他国家の賊物をことごとく打ち斃し、次いで国家の安泰を計るが目的である、云々。


諸君、われわれは歩兵第三連隊安藤大尉の部下である、われわれはこれより死を覚悟しているものである、しかして私の希望は何物もない。


われわれは国家のために死ぬものである、遺族のことはなにぶん頼むと述ぶ。


この時一般群集の動静は


甲 これからなお国賊をやってしまえ。


乙 愛宕山の放送局を占領して今の声明書を全国に知らして下さい。


丙 買収されるなよ。


丁 腰を折るな、しっかりやれ云々。


戊 妥協するな。


大変御苦労であった。


甲 なぜ牧野、一木をやらなんだのです。


山田伍長


牧野は焼き殺されておるのだ


と言い、次いで言をつぎ


諸君、われわれに共鳴するなら一木でも牧野でも打ち殺して来てくれ、と言う。


群集の声


「諸君の今回の働きは国民は感謝しているよ」


追って当時の群集はおよそ数百名ありたりという。



(『現代史資料 23』昭和四十九年発行 みすず書房
昭和史探索 3 pp. 296-299

昭和史探索〈3〉一九二六‐四五 (ちくま文庫)

昭和史探索〈3〉一九二六‐四五 (ちくま文庫)