72年前の今日 第二日

「西園寺公と政局」より

【承前】


已むを得ず二十六日一杯はそこにをつて、二十七日の午前十一時頃、鉄道省の自動車を借りて小田原まで行き、そこから汽車に乗つて興津に出かけた。興津との連絡が悪いので、できるだけ早く自分が行つた方がいゝと思つてをつたが、漸くにして抜け出すことができたわけだ。西園寺八郎氏、公一氏も一緒であり、ちやうど公爵も知事官舎から興津に帰つて来られた後であつた。



西園寺公と政局 第五巻 pp. 4-5

西園寺公と政局〈第5巻〉 (1951年)

西園寺公と政局〈第5巻〉 (1951年)

木戸幸一日記より

二月二十七日(木)曇


午前五時、伏見宮御参内との報に直に起床。


七時、武官長と面談、軍の動向を聴く。内大臣伏見宮をとの要望ある由なり。


八時、湯浅大臣、廣幡と面談、其後の処置につきお互に報告連絡をとる。


九時半、西園寺八郎氏来庁、老公の許に赴かるゝにつき打合す。今日迄の状況を話す。


秩父宮殿下御上京につき、岩波氏に途中迄御出迎して状況の御報告を依頼す。


十時半より十二時迄、朝香・東久邇両宮殿下に拝謁、其後の状況並に対策を言上、種々御意見を承る。


小野・工藤両秘書官と齊藤内大臣の葬儀につき打合す。


一時に大久保候、樺山伯来庁、牧野伯帰京希望云々の話あり。暫くは地方に居らるゝを得策とする旨御話す。


岡田総理大臣は生存し居り本日救出せられたるが、非常に興奮し、是非直に参内せむと主張せるを漸く慰撫して匿い居れりとの情報あり。


秩父宮は五時頃上野に御着、直に御参内になり、高松宮と御会見に相成、引続き拝謁、御奥にて両陛下と御会食相成たり。


秩父宮の御帰京を擁し、行動軍が御殿に入込むとの計画ありとの情報あり。八時半、殿下に拝謁して右の趣を申上げ、警衛の準備完了迄御帰りを御延を願ふこととす。


今朝、朝香宮は海軍大学に高松宮を訪ねられ、此際皇族が宮中に集り速に後継内閣の組織を為さしむる様進言したきを以て高松宮より召集相成度とのことなりしが、高松宮は集ることは兎も角も、それでなくとも御心配の陛下に如斯進言を為すは徒に御心配を増すものなりと思ふとの意味を述べられし由なり。


午後十一時半、岡部政務次官よりの情報。


眞崎・阿部・西三大将の説得にも依然二名程頑強に服せざるものありしが、眞崎大将より是迄に説くも聴かざれば此上は自分が先頭に立ちて討つべしと云ふに及び漸く服し、兵は幸楽、山王ホテルにて食事の後原隊に帰り、将校十七名は明朝憲兵隊に自首することとなれり。


華族会館にも多数入り来り、裏松君等十五六名はピストルにて威嚇され、身体検査をされ、夕方漸く釈放せられたり云々。



木戸幸一日記 上巻 pp. 466-467

木戸幸一日記 上巻

木戸幸一日記 上巻

本庄日記より

騒乱ノ四日間


【承前】


第二日(昭和十一年二月二十七日)


一、午前一時過、内閣ハ総辞職スルコトニ決定シ、後藤内相臨時首相代理トシテ各閣僚ノ辞表ヲ取纏メ、早朝闕下ニ捧呈セシガ


聖旨ニ依リ、後継内閣成立マデ政務ヲ見ルコトトナレリ。


陛下ニハ、最モ重キ責任者タル、川島陸相ノ辞表文ガ、他閣僚ト同一文面ナルコトヲ指摘遊バサレ、彼ノ往年虎ノ門事件ニテ内閣ノ総辞職ヲ為セル時、当ノ責任者タル、後藤内相(新平)ノ辞表文ハ一般閣僚ノモノト全ク面目ヲ変ヘ、実ニ恐懼ニ耐ヘザル心情ヲ吐露シ、一旦却下セルニ更ニ、熱情ヲ罩メ、到底現状ニ留マリ得ザル旨ヲ奏上セルノ事実ニ照シ、不思議ノ感ナキ能ハズトノ意味ヲモラサレタリ。


当時、武官長ハ陸相ノ辞表は内閣ニテ予メ準備セルモノニ署名シ、同時捧呈セルモノニシテ、何レ改メテ御詫ビ申上グルモノト存ズル旨奉答ス。


ニ、午前二時五十分、戒厳令公布セラレ、警備司令官香椎浩平中将戒厳司令官ニ任ゼラル。


戒厳令ハ勿論、枢密院ノ諮詢ヲ経テ、勅令ヲ以テ公布セラレタルモノニシテ、東京市ナル一定ノ区域ニ限ラレタリ。


此日、行動部隊ハ依然参謀本部陸軍省首相官邸山王ホテル等ニ在リ、午前十時半ヨリ、近衛師団半蔵門赤坂見附ノ線、第一師団ヲ赤坂見附、福吉町、虎ノ門日比谷公園ノ線ニ配置シ、占拠部隊ノ行動拡大ヲ防止セシム。


弘前ニ御勤務中ノ秩父宮殿下ニハ、此日御上京アラセラルルコトトナリシガ、高松宮殿下大宮駅マデ御出迎アラセラレ、帝都ノ状況ヲ御通知アラセラレタル後チ、相伴ハレ先ヅ真直グニ参内アラセラレタリ。


此ハ宮中側近者等ニ於テ、若シ、殿下ニシテ其御殿ニ入ラセラルルガ如キコトアリシ場合、他ニ利用セントスルモノノ出ヅルガ如キコトアリテハトノ懸念ニアリシガ如シ。


此日、閣僚全部、尚ホ依然宮中ニ在リ。岩佐憲兵司令官病ヲ押シテ参内シ、窃カニ岡田首相ノ健在ナルコトヲ告グ、其儘伝奏ス。


ニ、此日、戒厳司令官ハ武装解除、止ムヲ得ザレハ武力ヲ行使スベキ勅令ヲ拝ス。


但シ、其実行時機ハ司令官ニ御委任アラセラル。


戒厳司令官ハ、斯クシテ武力行使ノ準備ヲ整ヘシモ、尚ホ、成ルベク説得ニヨリ、鎮定ノ目的ヲ遂行スルコトニ努メタリ。


此日拝謁ノ折リ、彼等行動部隊ノ将校ノ行為ハ、


陛下ノ軍隊ヲ、勝手ニ動カセシモノニシテ、統帥権ヲ犯スノ甚ダシキモノニシテ、固ヨリ、許スベカラザルモノナルモ、其精神ニ至リテハ、君国ヲ思フニ出デタルモノニシテ、必ズシモ咎ムベキニアラズト申述ブル所アリシニ、後チ御召アリ、


朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ兇暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤト仰セラレ、


又或時ハ、


朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ、朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ、ト漏ラサル。


之ニ対シ老臣殺傷ハ、固ヨリ最悪ノ事ニシテ、事仮令誤解ノ動機ニ出ヅルトスルモ、彼等将校トシテハ、斯クスルコトガ、国家ノ為メナリトノ考ニ発スル次第ナリト重ネテ申上ゲシニ、夫ハ只ダ私利私慾ノ為ニセントスルモノニアラズト云ヒ得ルノミト仰セラレタリ。


尚又、此日


陛下ニハ、陸軍当路ノ行動部隊ニ対スル鎮圧ノ手段実施ノ進捗セザルニ焦慮アラセラレ、武官長ニ対シ、


朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ当ラント仰セラレ、真ニ恐懼ニ耐ヘザルモノアリ。決シテ左様ノ御軫念ニ及バザルモノナルコトヲ、呉々モ申上ゲタリ。


蓋シ、戒厳司令官等ガ慎重ニ過ギ、殊更ニ躊躇セルモノナルヤノ如クニ、御考ヘ遊バサレタルモノト拝サレタリ。


此日、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官等ハ、両三度参内拝謁上奏スル所アリシガ、


陛下ニハ、尚ホ二十六日ノ如ク、数十分毎ニ武官長ヲ召サレ行動部隊鎮定ニ付御督促アラセラル。


常侍官室ニアリシ侍従等ハ、此日武官長ノ御前ヘノ進謁、十三回ノ多キニ及ベリト語レリ。


此日午後遅ク、行動部隊将校ヨリ真崎大将ニ面会ヲ求メ、同大将之ニ応ジタル結果、更ニ阿部、西両大将モ之ニ加ハリ、種々説得ニ努メタルヨリ、彼等将校等モ大体ニ諒解シ、明朝ハ皆原隊ニ復帰スベシト答ヘシ由ニテ、此夜ハ警戒等モ特ニ寛大ナラシメラレタリ。



昭和史探索 3 pp. 271-275

昭和史探索〈3〉一九二六‐四五 (ちくま文庫)

昭和史探索〈3〉一九二六‐四五 (ちくま文庫)

高松宮日記より

二月二十七日


一夜あけて、通学前に岩波に電話した。宮中はお変わりなしとのことに通学す。


昼休み皈邸して状況をきく。甲府、高崎、佐倉等の兵がき、第一師団と共に戒厳配備についてゐる。陸軍では反軍を占拠部隊と称して依然戒厳部隊の中に加へて給与もしてゐる。唯、原隊にかへれと命令だか相談だかをしてゐる。ラチあかず。海軍ではすでに反軍と称して、連合艦隊を第二艦隊は大阪に、第一艦隊は東京湾に集合を命じて、昨日来横須賀より陸戦隊を四ヶ大隊もつてきて芝浦や海軍省に配して待機警備して、陸軍やらずば海軍の手にてもやると云ふ意気であつた。学校了つてから昨日大宮御所へゆけなかつたから、先づ御機嫌を伺ひ、それから参内す。昨日は平河門から入つたが、今日は大手門より入る。昨日は校長や教官が前后を一台づゝの自動車で守つてきた。今日、教官のみ一台ついてきた。


五時すぎ秩父宮上野駅御着。直チに御参内。(昨夜弘前より御電話にて皈へらうか、どうせうかと云つてらしつたから宮内省の方をきいたら、お皈りになつて不都合は少しもないが、三連隊や西田、安藤等との関係でデマがとぶことは心配と云ふことであつた。それもお話したが、重臣の不在はそれにもましてお皈へりが必要とも思つたが御判断を願ひ、結局十一時の汽車でお皈りのことになさつた)。


午前中に朝香宮が学校へ見えて、今度の事件は重大であり皇族が黙つてゐるべき秋でない、秩父宮も夕方にはおかへりになるが今は私が一番上だから、各宮を集めて皇族の意見をお上に申し上げようではないかとのお話なり。如何なる事を申し上げるのですかと云へば、「速かに後継内閣をつくつて人心を安定せしめようと云ふ意見なり」と申し上げるのだとのこと。それは自然誰れと云ふ問題になり、それを腹にもたないで今どうかと思ふから集れはかけられないとお答へし、秩父宮が五時頃には宮城へならせられるから、その時お集まりになる方があればそこで如何とお別れす。朝香宮東久邇宮、梨本宮と共にお待ちにて結局、議決のやうなものはやはり面白くない、陛下の御承知のことを又申上げてもしやうない事だし、併し皇族の意見をまとめておくことはよいから明日集らうと云ふわけで、秩父宮と私は奥で夕食を御一緒に戴いた。九時頃かへる。秩父宮はそれより大宮御所へならせらる。



高松宮日記 第二巻 pp. 390-391

入江相政日記より

二月二十六日(水) 晴 寒 六、三〇 九、三〇


昨夜は久松さんと一緒に侍寝室に寝る。七時に起きたら洗面所は一杯。うがひは後にしてフロツクを着て常侍官候所に行く。大金氏は殆ど徹夜してゐたらしい。七時過、後藤首相代理拝謁。徳大寺さんは高橋蔵相邸に御尋ねの御使、高橋さんも遂に駄目だつた。斎藤さんには機関銃を百八発放つて中三十数発命中との事。高橋さんはピストルで撃ち、更に日本刀で身体を斬つてあつたとの事、何たる侮辱だ、武士らしくない殺し方は憤慨に堪へない。岡田さんは今以て分らない。或は首相官邸の何処かにかくれてゐるといふ説もある。戒厳令が敷かれても暴徒は依然前日と同様の所に立こもつて立去らないとの事、或は場合によつては市街戦にならぬとも限らぬとの事。四時自働車で平河門から退出、黒田、徳大寺、久松三氏と帰る。令子、為年は番町へ行つてゐる。すぐ呼び戻す。余丁町、坊城さん、高木さんへ電話をかけて安心なさるやうにいふ。七時のニユースでは岡田首相も遂に駄目だつたとの事、困つたことになつたものだ。昨日の疲れでねむくて仕様がない。牛鍋をおいしく食べ、八時前にいゝ気持で四人で入浴。すぐに入床、間もなく寝る。



入江相政日記 第1巻 p. 55

入江相政日記〈第1巻〉

入江相政日記〈第1巻〉

緊急勅令(戒厳令の公布)

朕茲ニ緊急ノ必要アリト認メ枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ帝国憲法第八条第一項ニ依リ一定ノ地域ニ戒厳令中必要ノ規定ヲ適用スルノ件ヲ裁可シ之ヲ公布セシム


御名御璽


昭和十一年ニ月二十七日



(『二・二六事件判決原本―付・関係資料』より 東潮社)
昭和史探索 3 p. 258

昭和史探索〈3〉一九二六‐四五 (ちくま文庫)

昭和史探索〈3〉一九二六‐四五 (ちくま文庫)