72年前の今日

「西園寺公と政局」より

二月二十六日の朝、五時四十分頃に木戸から電話がかゝつて来て、「いま内大臣が襲撃された。岡田、高橋両大臣も襲撃された。内大臣の私邸には寄りつくことができない。自分は取敢へず宮内省に行くからよろしく頼む」とのことであつた。自分は木戸に、「宮内省に行つてから、興津にすぐ電話をかけてくれ」と頼んだ。それから自分も支度をして門鑑を持ち、宮内省に行つて木戸と連絡をとりながら好い時期に興津に行くつもりで、門を出て、徒歩で三宅坂の方に向かつた。やゝ暫くしてふと頭を上げると、前方十間ぐらゐの所に兵隊が剣つき鉄砲を持つて並んでゐる。驚いた自分はまづゆつくり後戻りをして、今度は反対の方向から出ようと思つてゐると、そこにもやはり機関銃があり、兵隊も並んでゐたので、一まづ家に帰つた。


しかし木戸の安否が気になつたので、暫くして家から電話で宮内省に問ひ合せると、三四十分して木戸から電話がかゝつて来た。それで安心して好い時期を見て興津に行かうと思つて準備してゐたところ、各方面から電話がかゝつて来て、「家が危険だから、とにかく貴様だけでも先に逃げろ。本人さへゐなければ家族は助かるのだから……」といふことであつたので、已むを得ず自分は隣の家に避難した。そこから連絡をとつてゐると、木戸はしきりに電話をかけて来て、「軍事参議官はすべて揃つたが、閣僚の集まり方が非常に遅い」といふことであつた。


自分は松平慶民に電話で、「宮内省に行つたら木戸に会って、『この際、海軍の出動はないのか』と言つてくれ」と頼んだ。松平は「役所に行けるか行けないか判らないが、いつ親任式があるかもしれないから、とにかくできるだけ早めに行かう」と言つてをつた。自分はどうかして隙をみて宮内省に行かうと思つて、時々前にゐる兵隊の様子を見るけれども、後も前も横もすべて歩哨が立つてゐて出られさうもない。で、木戸からは「とにかく、興津の方は連絡をとつたから大丈夫だ。貴様はそこにぢつとしてゐろ」といふことであつた。


そのうちに戒厳令が布かれて戒厳司令官が任命され、近衛師団が出動することになつたといふので、恐らくすべての問題が直ちに解決するだろうと思つてをつたけれども、叛乱軍の方は永田町近辺を固めてゐて、警戒は非常に厳重な様子であつた。



西園寺公と政局 第五巻 pp. 3-5

西園寺公と政局〈第5巻〉 (1951年)

西園寺公と政局〈第5巻〉 (1951年)

木戸幸一日記より

二月二十六日(水)雪


午前五時二十分、小野秘書官よりの電話なりとの市川の声に夢を破らる。直に電話に出しに、内大臣は只今私邸にて一中隊の兵に襲撃せられ、奥様もお二人共いけない様ですとのことなり。右は齊藤家の書生よりの電話なりと。一大不祥事の発生を直感し、直に警視総監に電話をかく。通話することを得たれども、警視庁の手配については要領を得ず。よって役所より自働車を招き、午前六時参内す。自働車を待つ間に、近衛公、原田男に通知す。何れも未だ知らざりき。


午前六時四十分頃、興津の西園寺公邸に電話を以て事件を御知らせす。公爵始め一同未だ御休み中との女中の返事にて、大に安心す。


【中略】


陸軍大臣拝謁の際、


「今回のことは精神の如何を問はず甚だ不本意なり。国体の精華を傷くるものと認む」との御言葉ありし由なり。誠に恐懼の至に堪へず。


軍事参議官等は参内し来りしも、閣僚は一人も参内せず。政治の中心を速に確立せざれば前後処置は不可能なれば、廣幡と相談し、宮内大臣の指図にて不取敢兒玉拓相に電話にて連絡をとり、閣僚の参内を求む。尚、内大臣薨去せるを以て、差当り枢密院議長に参内を御願いすることとし、連絡をとる。午後三時頃、一木枢密院議長は参内せらる。陛下より議長に対しなるべく側近に居る様にとの意味の御言葉ありし由にて、組閣の完了する迄内大臣室に宿泊せらる。


【中略】


陸軍省参謀本部青年将校は暫定内閣を作ることを申合せ、進言せりと云ふ。之はファッショ的傾向多分にあるものならん。此希望は蜂起せし部隊にもあり。


戒厳令を布くことに陸軍大臣より要求あり。之は主として石原大佐が主張せしによると云ふ。海軍大臣は其の必要を認めざれど陸軍が責任をとれずと云ふのなれば致方なしと云ふ。後藤内相は相当反対したるも、遂に同意せりと云ふ。


一木議長は今回の問題の根源が自己にあるとの意味にて辞意を漏らさる。


陛下は暫定内閣は御認めなく、陸軍は自分の頸を真綿で締めるのかとの意味の御言葉を本庄武官長に御漏になりたりと。真に恐懼に堪へず。之をた承りたるときは涙の溢るゝを止め得ざりき。


【中略】


午後九時、後藤内相総理大臣臨時代理を拝命、引続き閣僚の辞表を取纏め、辞表を捧呈す。


陛下より、「速かに暴徒を鎮圧せよ、秩序回復する迄職務に励精すべし」との意味の御言葉ありたり。


【中略】


十一時半、陛下親臨の下に枢密院は戒厳令案を可決す。


今夜は廣幡君と共に秘書官長室に宿泊す。午前一時半床に入る。



木戸幸一日記 上巻 pp. 464-466

木戸幸一日記 上巻

木戸幸一日記 上巻

本庄日記より

騒乱ノ四日間


第一日(昭和十一年二月二十六日)


一、二月二十六日午前五時頃、猶ホ、睡眠中ナリシ繁ノ許ニ、歩兵第一連隊ニ週番勤務中ナル、女婿山口大尉ノ使ナリトテ、伊藤少尉周章シク来訪シ、面会を求メシヨリ、何事ノ出来セシヤヲ憂ヘツツ会見セシ処、同少尉ハ、


連隊の将兵約五百、制止シ切レズ、愈々直接行動ニ移ル、猶ホ、引続キ増加ノ傾向アリトノ驚クベキ意味ノ紙片、走リ書キ通知ヲ示ス。


【中略】


参内早々御政務室ニテ拝謁、天機ヲ奉伺シ、容易ナラザル事件発生シ恐懼ニ堪ヘザル次第を申上ゲシ処、


陛下ニハ非常に御深憂ノ御様子ニテ、早ク事件ヲ終熄セシメ、禍ヲ転ジテ福ト為セ、トノ御言葉ヲ賜ハリ、且ツ、武官長ノミハ嘗テ斯様ナコトに至リハセヌカト申セシガ如シト仰セラレタリ。


繁ハ唯ダ恐縮シテ御前を退下ス。


【中略】


午前九時頃川島陸相参内、何等意見ヲ加フルコトナク、単ニ状況(青年将校蹶起趣意書ヲ附ケ加ヘ朗読申上ゲタリ)ヲ申述ベ、斯ル事件ヲ出来シ、誠ニ恐懼ニ堪ヘザル旨ヲ奏上ス。之ニ対シ、


陛下ハ速ニ事件を鎮定スベク御沙汰アラセラル。


【中略】


六、此日


陛下ニハ、二、三十分毎ニ御召アリ、事変ノ成行キヲ御下問アリ、且ツ、鎮圧方督促アラセラル。


内大臣ハ襲撃ヲ蒙リ避難シ、侍従長ハ重傷ヲ負ヒ、加フルニ事、陸軍々人ノ行為ニ属セルヨリ、武官長専ラ御下問ノ衝ニ当リ、責任ノ正ニ重大ナルヲ感ゼリ。


此夜、


陛下ハ午前二時ニ至リ、猶ホ御召アラセラレタリ。自然御格子ハ同時以後ニ渡ラセラレシモノト拝ス。実ニ恐懼ノ至リナリキ。


【後略】



昭和史探索 3 pp. 266-271

昭和史探索〈3〉一九二六‐四五 (ちくま文庫)

昭和史探索〈3〉一九二六‐四五 (ちくま文庫)

高松宮日記より

二月二十六日


朝七時頃、本省の岩波事ム官より電話とのことにて何事かと思へば、聞けば一層驚くべきことにて今朝五時頃、麻布三連隊の兵が将校指揮のもとに出動し、斎藤内府、鈴木侍従長に暴行し内府は即死、侍従長は重傷とのこと。高橋大蔵大臣や岡田首相もやられたらしいが、警視庁や陸軍省が占領されて連絡とれず不明とのこと。宮内大臣は参内し上奏した。私も行かうかと云つたが今宮城の辺は通行止められ、とても入れぬとのことに、仕方なく学校へゆく。出がけに弘前へ右の概況をお電話して出た。昼休みに皈邸して状況をきいたが、まだ参内出来ぬとのことなりしも海軍の方の取りしらべでは、伏見宮も九時頃参内され、朝香宮東久邇宮も参内されたと云ふので、又岩波に相談して時間もないので学校へもどり、結局三時に通礼にきかへて学校より参内。御機嫌を伺ふ。御心配は申すまでもなきことながら、御元気にて安心せり。


事態は不明ながら小規模ならぬやうに知らされてきて渡辺教育総監もやられた、一連隊からも兵が出てゐると色々のデマや真相が発表、流布され、陸軍省は偕行社へ、参謀本部憲兵隊に、警視庁は何んとか署へと云つた風に事ムを取る。財界の誰かれが殺されたともつたはる。戒厳は却つて彼等に好都合だと云ふので戦時警備令で治安維持をやると云ふ発令であつたが、夜に入り午后十時半頃か枢密院会議ありて戒厳令を公布された。私のところには昼から経理学校の兵が十数名きて警備する。戒厳になつて陸兵も数名くれば巡査もゐると云ふわけで大混雑なり。


かくて不安のうち暮れてゐつた。


高橋蔵相は三笠宮の仕人がすぐ兇行后に行つたら兵がゐてゐれなかつたが、宮家のものとつげたら今回のことは皇族には手をふれるなと云ふのであるから差支へないとて中に入れたので、ズンヽ入つて機銃で蜂巣のやうに無惨な姿を見てきたと云ふことであつたが、発表は重傷とされた。岡田首相の方は海軍省のものが行つたら、今度は海軍には御迷惑をかけませんとて少尉の人が中に入れたので見てきたと云ふのに即死として発表されて、私も死んだと思ひ込んでゐた。宮内省では不明と云つてゐた。(二十七日に御所で生きてゐると伺つて夢のやうな気がした)。


市中は極めて変わりなく、丸の内だけが宮城前には広場に人を入れずに、雪の中に近衛兵が針金をはつて守つてゐる。人々はむしろ見物のつもりでゾロヽ歩いてゐる。



高松宮日記 第二巻 pp. 388-390

入江相政日記より

二月二十六日(水) 雪 寒 六、一五 ニ、〇〇


侍従職からの電話で起こされる。侍従長が襲撃を受けたからすぐ出勤するやうにとの事、桃太郎で行く。御門から歩かされた場合を考へ坂下門へ廻る。近衛兵に調べられたり巡査に調べられたりして御門まで行き、結局そこで自働車を降りて歩く。常侍官候所には、大臣、次官、大夫、木戸、岩波氏等が居る。当直の甘露、大金両氏、小出氏、予より少し遅れて他の侍従も来る。段々きくと第一師団の歩第一、第三両連隊の中、七百人程が首相、内大臣侍従長等を襲つたとの事。併しその結果についてははつきり分つてゐるのは侍従長内大臣だけ。侍従長は重傷乍ら生命はとりとめる模様、内大臣は即死。聖上の御心配は一通りではない。何回となく武官長を御召になる。その中に閣僚も段々集まり、結局首相、蔵相を残して全部西溜に集まる。東一、二の間には軍事参議官、東三の間には枢府顧問官、伏見軍令部長は第一休所。牧野前内府は湯ヶ原で辛うじて助かつたらしいがまだよく分らない。後藤内相が臨時首相代理。西園寺公、一木議長、若槻、清浦両氏は無事。警備司令が出、夜一時過に戒厳令。宇都宮、佐倉、甲府等から兵が上京。暴行兵は警視庁、首相官邸陸軍省参謀本部を占領、その廻りを正兵が囲んでゐるといふ情態。侍従は六人、武官全部、大臣、一木氏、大夫、木戸、閣僚宿直。



入江相政日記 第1巻 pp. 54-55

入江相政日記〈第1巻〉

入江相政日記〈第1巻〉

蹶起趣意書

謹ンデ惟ルニ我ガ神州タル所以ハ、万世一系タル天皇陛下御統帥ノ下ニ、挙国一体生成化育ヲ遂ゲ、終ニ八紘一宇ヲ完了スルノ国体ニ存ス。此ノ国体ノ尊厳秀絶ハ天祖肇国、神武建国ヨリ明治維新ヲ経テ益々体制ヲ整ヘ、今ヤ方ニ万邦ニ向ツテ開顕進展ヲ遂グベキノ秋ナリ。


然ルニ傾来遂ニ不逞凶悪ノ徒簇出シテ、私心私欲ヲ恣ニシ、至尊絶対ノ尊厳ヲ藐視シ僭上之レ働キ、万民ノ生成化育ヲ阻碍シテ、塗炭ノ痛苦ヲ呻吟セシメ、随ツテ外侮外患日ヲ逐ウテ激化ス。


所謂元老、重臣軍閥、財閥、官僚、政党等ハ此ノ国体破壊ノ元兇ナリ。倫敦軍縮条約並ニ教育総監更迭ニ於ケル統帥権干犯、至尊兵馬大権ノ僭窃ヲ図リタル三月事件、或ハ学匪、共匪、大逆教団等、利害相結ンデ陰謀至ラザルナキ等ハ最モ著シキ事例ニシテ、其ノ滔天ノ罪悪ハ流血憤怒真ニ譬ヘ難キ所ナリ。中岡、佐郷屋、血盟団ノ先駆捨身、五・一五事件ノ憤騰、相沢中佐ノ閃発トナル、寔ニ故ナキニ非ズ。


而モ幾度カ頸血ヲ濺ギ来ツテ今尚些カモ懺悔反省ナク、然モ依然トシテ私権自恣ニ居ツテ、苛且偸安ヲ事トセリ。露、支、英、米トノ間、一触即発シテ、祖宗遺垂ノ此ノ神洲ヲ一擲破滅ニ堕ラシムル、火ヲ睹ルヨリ明カナリ。


内外真ニ重大危急、今ニシテ国体破壊ノ不義不臣ヲ誅戮シテ稜威ヲ遮リ御維新ヲ阻止シ来レル奸賊ヲ芟除スルニ非ズンバ、皇謨ヲ一空セン。恰モ第一師団出動ノ大命渙発セラレ、年来御維新翼賛ヲ誓ヒ、殉国捨身ノ奉公ヲ期シ来リシ帝都衛戍ノ我等同志ハ、将ニ万里征途ニ登ラントシテ、而モ省ミテ内ノ亡状憂心転タ禁ズル能ハズ。君側ノ奸臣軍賊ヲ斬除シテ、彼ノ中枢ヲ粉砕スルハ我等ノ任トシテ能ク為スベシ。臣子タリ股肱タルノ絶対道ヲ今ニシテ尽サズンバ、破滅沈淪翻スルニ由ナシ。


茲ニ同憂同志機ヲ一ニシテ蹶起シ、奸賊ヲ誅滅シテ大義ヲ正シ、国体ノ擁護開顕ニ肝脳ヲ竭クシ、以テ神洲赤子ノ微衷ヲ献ゼントス。


皇祖皇宗ノ神霊冀クバ照覧冥助ヲ垂レ給ハンコトヲ。


昭和十一年二月二十六日


陸軍歩兵大尉 野中 四郎
外同志一同



(『二・二六事件判決原本―付・関係資料』より 東潮社)
昭和史探索 3 pp. 253-254

昭和史探索〈3〉一九二六‐四五 (ちくま文庫)

昭和史探索〈3〉一九二六‐四五 (ちくま文庫)