最近読んだ本 その9:所有と国家のゆくえ

激しくいまさらですみません・・・。

所有と国家のゆくえ (NHKブックス)

所有と国家のゆくえ (NHKブックス)

稲葉さんと立岩さんの対談による本。僕は大変面白く読んだのだけど、万人にはおすすめできない、かなあ。先日の機会の平等と結果の平等を実現するコストについて考えてみたエントリをきっかけに購入。

万人におすすめしない理由として、まずは格差とか不平等(まあ同じことだけど)が気にならない人には面白くない点が挙げられる。「所有と国家のゆくえ」というタイトルだけれども、本書で話題になっているのはほとんど格差とか不平等の話だ。

それと何らかの結論を得たい人にもおすすめしにくい。基本的に本書の対談は、稲葉さんの問題意識を縦糸に、立岩さんの考えていることを横糸に、まっすぐではなくあちこち寄り道をしながら展開されていく。しかもその寄り道はほとんどがどこにもたどりつかない。結論を急ぐ人にはストレスがたまるだろう。

更に、2点目と似たようなポイントなのだけれども、具体的な議論、つまり問題を解決するための政策やなんかを求めている人にもおすすめしない。本書で展開されているのはかなり抽象的な、思想的な話だ。具体的な話を求める方には『「小さな政府」を問いなおす』(ASIN:448006320X)をおすすめしておく(後日取りあげる予定)。

とおすすめできない理由ばかり挙げたけれども、逆にいうとこれら3点に該当しない人にとってはかなり面白く読める本なのではないか、と想像する。特に3点目なんかは僕のような現代思想ディバイド((c)韓リフ先生)な人間にとっての話であって、こっち方面に免疫や好みや属性がある人にはむしろ好ましい点かもしれない。よくわかりませんけど。

ってこれだけではあまりにアレなので、内容についても2点だけ触れておく。ちゃんとした書評については最後の参考リンクをご参照いただきたく。

まず1点目、立岩さんによる成長を目指さない分配国家という目標について。これについては以前書いたとおり、やはり全然賛成できない。

いくら分配をミニマムに抑えようと、成長がなければ分配の基礎となるパイはスパイラル的に縮小せざるを得ない。成長は福祉の糧なのだ。

福祉や格差がテーマの議論を見聞きして一番違和感があるのはこの点だ。行政手続きとして実行可能か否かの以前に、制度として継続不可能であるということはもっと理解されてしかるべきと個人的には激しく思う(稲葉さんの問題意識のひとつはこの点にあるようなので、勝手にすごく期待してます)*1

2点目は、本書の主に前半で展開されている所有に関する議論について。先日書いた僕の浅薄な倫理的な観点は脇に置いても、所有の基礎を考えることには3つの注目すべき面白さがあるように思われる。ので、ぐだぐだだけれどもメモとして書いておく。なんとなれば、普通の経済学においては所有は前提をされているので、僕には非常に新鮮だったのでした。

一つ目は稲葉さんの問題意識に絡んだ点から。稲葉さんの問題意識は、これは本書のまえがきを読んでそれほど間違っちゃいないなと意を強くしたのだけれど、世の中からマルクス経済学、共産主義、または専制国家的社会主義のおかしな点を如何に上手に取り除くかにあるのだろう、と僕は勝手に思っております。

言ってみれば、こうした思想にどっぷり首まで漬かっちゃってる人やかつて経済学といえばそっち方面だけだった人を脱洗脳するというか憑物を落とすというか、そういうお仕事をされているのだろうなと。恐らくご自身の憑物落としでもあるのだろうなと勝手に想像。

で、そうした立場から見れば、立岩さんの所有論は、ちょうどマルクス経済学と近代経済学(つまり普通の経済学)を橋渡ししてくれる土台としてうまく使えるように見えるのだろうな、と思った次第。

何しろ個人が何かを所有することすら否定する人たちを相手にするわけだから、他者の存在から所有を基礎付ける立岩さんの立論は、うまくすればそっちの人たちでさえなんとか納得せざるを得ない議論にまとめることも可能かもしれない。本当に可能かどうかはわかりませんけど。

でもこの稲葉さんの問題意識(と僕が勝手に想像しているもの)は、今後の日本を大いに盛り上げるためには誰かが取り上げてやっつけねばならん仕事だと僕は思っているので、ご成功をお祈りしている次第でございます。僕にできることは何もありませんが草葉の陰から応援させていただきとうございます。

で二つ目は、所有の基礎付けに関する議論は、恐らく立岩さん本来の問題意識、またid:dojinさんが展開されている問題意識を理解するための一助になるだろうな、というもの。

彼らに特徴的な(だと僕が勝手に考えている)点として、格差や不平等を考える際に障害者をもそのスコープに含める点があるように思う。これってこの分野では普通なんだろうか?

確かに障害者は特例として扱うと、そもそもその扱いが不平等だ、という話にはなる。それにマクロ的な経済環境や本人の能力その他により働けない人たちの格差や不平等問題を考えるにしても、その能力って何なのよ、という点で、突き詰めてしまえば障害者たちの問題と程度問題なのかもしれないとも思う。

でも僕はやっぱり、格差や不平等を考えるときには、障害者は別枠で考えた方が筋が良いように思えてならない。その理由は、格差や不平等といったときに問題になるポイントとしては2つのものがあり、それを分けて考えないと議論が不毛になるのだけれども、障害者の問題を一緒に考えるとこの2つのポイントがごっちゃになってしまって、やっぱり不毛な議論になり勝ちだと思うからだ。

その2つのポイントのうち、ひとつは経済的なもの。これは分配でなんとかなる。本書のほとんどで展開されているのはこの経済的な格差や不平等の問題だ。どうやって・どのくらい分配するかについて、議論の余地は大アリだけれども、これはそんなに不毛な議論にはならないはず。

もうひとつは生きる意味とか尊厳とか生きがいとかについて。これは国や政府にはどうしようもない。これを格差や不平等の問題に持ち込んでしまうと、打ち手なんてないんだから具体性に欠ける話にしかならんように思う。

で、障害者の格差や不平等を考えるとどうしてもこの2点目が滑り込んできてしまうようだ。例えばdojinさんがこちらで障害者A・Bの発言として考えているのはまさにこの点だと思えるし、また本書で立岩さんが以下のように述べているくだりも同様に思える。

人間は働きたい、ところもある。金さえもらっていれば別にいいんだって割り切り方もある。それもありつつ、労働というのは確かに労苦でもありますが、同時に何かしらしたい部分ってのがあったりもする。これは、誰かに騙されて働きたいと思うってだけじゃなくて、何かしたいってことは否定しなくてもいいと思うんです。

「所有と国家のゆくえ」 p.147

もちろん経済的な問題以外に、「何かしたい」、「誇りを持って堂々と生きていきたい」といった尊厳に関わる問題が存在することを否定するつもりはないし、それが重要でないとも思わない。障害者にとってはまさに切実な問題なんだろう。

でもこれを経済的な格差や不平等の問題とセットにして考えて、国やら政府やらが何か対応を行うべきとする考えにはまったく賛成できない。尊厳が問題になっているのは障害者だけじゃないし、国・政府が何かできる問題でもするべき問題でもないと僕は考える。

ということで、なんか話がかみ合わない原因のひとつがこうした点にあるのだなあ、ということが所有の基礎について考えることでちょっとだけわかったのは収穫だったな、と。

三つ目、これはあまり本書には関係ない僕の妄想だけれども(とはいえ、立岩さんは明確に、稲葉さんもたぶん、世界における格差について考えているのでまったく見当違いでもないかもしれない)、所有のルーツについて考えることは、何故世界には未だ貧困から脱出できない国々が多いのかを考える一助になるかもしれん、ということ。

去年もリンクをはったのだけど、id:temjinusさんの昔のエントリより、ちょっと長めの引用をさせてもらいます。

法を守る、あるいは社会正義というような個人の利害の外に存在する価値を認める、守るためには「族」の概念、モーリタニアにおけるような族概念は消滅する必要がある。族の利害のために法を曲げる、破るという行為が普通であってはならない。しかしまた「族」がモーリタニ社会における社会保障機構の役割を果たしているのも事実である。保護してくれる、生活を保障してくれるからこそ「族」は生き続ける。

・・・

すると法の精神と族の精神とは両立しない。

・・・

しかし「現代国家」として機能するためには法は整備されるべきであり、族の利害を行動原理とする態度は否定されるべきだ。そのためには個人に仕事を与え、族ではない家族としてして生活できる条件を整え、かつ族が果たしている社会保障の機能を国家が提供しなければならない。つまり族のような大家族を核家族化することが必要だ。それは製造業や商業やサービス業であるわけだろう。しかしこうした産業を興すには、それだけの教育水準が必要だ。モーリタニの現在の教育では無理である。すると単に負債を帳消しにしたからといって状況が変わるわけではないことは明らかだ。

是非続きをこちらからどうぞ。僕はこれは重要な視点だと思う。個人でも国家でもない「族」の利害が行動原理として存在している場合、そこでは当然所有の概念も個人や国家が前提となっているそれとは異なるように思えるのだ。

そしてここには2つの鶏卵問題があるように思える。ひとつは国家が体をなしていないために「族」が優位になっているのか、それとも「族」が優位だから国家に成り得ないのか。もうひとつは、「族」が存在するから所有の概念が異なるのか、それとも所有の概念が異なるから「族」に力があるのか。

このパズルは僕にとっては実に興味深くて、例えば明治に廃藩置県があれほどスムースに行えなかったら、日本という国はどうなっていただろうと考えたりもする。

もちろんこの文脈でこの話をするってことは、僕は(モーリタニアに限らず、貧困国のほとんどは)個人の所有の概念が異なるために「族」が優位に存在し、それ故に国家としてまともに成立し得ず貧困を抜け出せないのではないか、と考えているわけだ。だから問題を解決するには、個人の所有の概念を変える必要があるように思えてならない。

しかしこう考えるとまたややこしい問題が出てきてしまう。貧困から脱出して資本主義国として成立することは、「族」とそれに付随するもろもろの文化の破壊を正当化し得るのだろうか?

僕はこれには(異論は沢山あるのは知っているけれども)「もちろん!」と答えたい。生活や習慣や風習や習俗や文化の変化を強要するのは、何も資本主義だけではないはずだ。たとえは極端だけれども、日本にだって、鎌倉時代の農民文化や江戸時代の町人文化は残ってない。まこの話は長くなるのでいつか改めて。

って十分長すぎですかそうですか。しかも最後は妄想入ってるし。うぅ。なんか知恵熱が出てきたのでこのへんで。


【参考リンク】

*1:ちなみにこの点について、特に第2章では稲葉さんの腰が引けてて立岩さんに明言できていないように感じた。会衆を前にしての対談という形式だからかな?もちろんこの論点は本書最後の稲葉さんによる「経済成長の必要性について」で補足されてはいるのだけれど、これが対談中に明確に出てきていればもっと面白いものになったように思う。