科学者とエンジニアとしてのマクロ経済学者(2)

【この文章は、N. Gregory Mankiwの"The Macroeconomist as Scientist and Engineer"を勝手に翻訳したものです。段階的にアップロードしていく予定です。内容などおかしなところがあれば、メールもしくはコメントにてご指摘いただければ幸いです】

ケインズ革命

マクロ経済学」という言葉が最初に学術的な文献に登場したのは1940年代のことだ。もちろん、マクロ経済学における話題―インフレーション、失業、経済成長、景気循環、そして金融・財政政策―は長い間経済学者たちをひきつけてきた。例えば18世紀には、デヴィッド・ヒューム(David Hume, 1752)が短期と長期における貨幣注入(monetary injections)の効果について記述しているが、彼の分析は多くの点で、現代の金融論の経済学者やセントラルバンカーが言っていることと驚くほど同じように見える。また1927年には、アーサー・ピグー(Arthur Pigou)が「Industrial Fluctuations」(産業の変動について)という景気循環を説明することを目的とした本を出版している。しかしそれでもなお、独立した活発な探求領域としてのマクロ経済学の分野は、大恐慌が投げかけた影から生まれたものだ。これほど知的な関心を呼んだ危機は他にない。

大恐慌はその間に生きた者に深遠な影響を与えた。1933年には米国の失業率は25%に達し、実質GDPは1929年の31%低いレベルにあった。この津波に比べれば、その後のすべての米国経済の変動は平穏な海のさざ波のようなものだった。この時代の卓越した経済学者たち、例えばローレンス・クライン、フランコ・モジリアーニ、ポール・サミュエルソンロバート・ソロー、ジェームス・トービンのような人々の自伝的エッセイでは、この恐慌が彼らの経歴の主要な動機となったことが確認できる(Breit and Hirsch, 2004)。

ジョン・メイナード・ケインズの「一般理論」は、こうした事態の進展をどのように理解するかに関しての専門的な議論の焦点となった。上に挙げた5名のノーベル賞受賞者のすべてが、直接的な経験によりそれを確認している。トービンは、彼が学生として1930年代後半から1940年代前半をすごしたハーバードでのこんな反応を伝えている。「年配の教員はたいてい反感を持っていた……若い教員や学生を教えている大学院生は、ケインズの本に熱狂していた」。よくあることだが、若者は年配の者に比べ、新しいアイデアの影響力についてより深い洞察力を持っていたのだ。ケインズはマーシャルと共に、1930年代に最も経済学誌に引用された経済学者であり、1940年代にはヒックスに次いで2番目であった(Quandt, 1976)。この影響力は長期間に渡って持続した。ケインズの死後20年が経過した1966年から1986年の期間においてすら、彼の論文引用数ランキングは14番目であった(Garfield, 1990)。

ケインズ革命の影響は、経済学の研究においてだけでなく、その教授法にもおよんだ。サミュエルソンの古典的な教科書である「Economics」(経済学)の初版は1948年に出版され、その構成は、専門家は何を一般読者に伝えるべきか、という彼自身の認識を反映していた。今日我々が新入生に経済学を教える際の核心である需要と供給の話は、サミュエルソンの608ページあるこの教科書では447ページになるまで出てこなかった。財政乗数や貯蓄のパラドックスといった概念を含む、マクロ経済学の説明が最初にきていたのだった。サミュエルソンは次のように書いている(253ページ)。「この分析のほとんどは英国の経済学者であるジョン・メイナード・ケインズによっているとはいえ、……今日ではその広範な原理はすべての学派の経済学者に次第に受け入れられつつある」。

現代の経済学者が「一般理論」を読んだ場合、爽快さと同時にもどかしさも感じることになる。この本は、一方では、偉大な知性がその影響と非道さには疑問の余地のない社会的な問題に適用された研究である。しかしまた一方では、そこでの分析は広範囲に及ぶとはいえ、論理的になんとなく不完全に感じられる。あまりにも多くの話題が中途半端に置き去りにされているのだ。厳密にいうとどのような経済学的モデルがこれらの断片をひとつにまとめるのだろうか、という疑問を読者は抱き続けることになる。

ケインズが「一般理論」を出版した後すぐに、ある世代のマクロ経済学者たちは、ケインズの壮大な構想をよりシンプルで明確なモデルに転換することでこの疑問に答えるべく、研究を行った。そのなかでも最初にして最も影響力のあった試みは、当時33歳のジョン・ヒックス(John Hicks, 1937)によって提案されたIS-LMモデルだった。その後、当時26歳のフランコ・モジリアーニ(Franco Modigliani, 1944)は、このモデルを全体的に拡張し解説を行った。IS-LMモデルは、ケインズが提示した解釈として、広く使われている中級レベルのマクロ経済学の教科書に今日でも残っている。一部のケインジアンたちは、IS-LMモデルは「一般理論」でケインズによって提示された経済学的な構想を単純化しすぎている、と批判している。この批判はある程度当を得ているだろう。このモデルの本質は、そうでなければ理解することが難しい議論を単純化することにあったからだ。単純化することと単純化しすぎることの境界は、しばしば明確とは程遠いのだ。

ヒックスやモジリアーニのような理論家が、ケインジアンのモデルを教室の黒板にふさわしいように発展させていた間に、クラインのような計量経済学者たちは、データを解釈し政策の分析に使えるような、より応用よりのモデルの研究を行っていた。やがてこれらのモデルは、より現実的なものを、との願望とともに大規模なものとなり、最終的には数百もの変数と方程式を含むものとなった。そして1960年代までには、当時の傑出したケインジアンの功績に基いた多くの計量モデルが存在することになった。例えば、クラインによるウォートンモデル、オットー・エクスタイン(Otto Eckstein)によるDRI(Data Resource, Inc.)モデル、アルバート・アンドウ(Albert Ando)とモジリアーニによるMPS(MIT-Penn-Social Science Research Council)モデルなどだ。これらのモデルは予測と政策分析に広く用いられた。またMPSモデルは長年に渡り連邦準備により整備され、現在でも連邦準備のスタッフにより整備されているFRB/USモデルの前身となった。

こうした様々なモデルは細部においては異なったものだったが、しかしそうした差異よりも特筆すべきはその共通点だった。これらのモデルはすべて、基本的にはケインジアン的な構造を持っていたのだ。それぞれのモデルの製作者の心の奥底には、今日でも学部生に教えられている同じシンプルなモデルがあった。つまり、IS曲線は金融情勢と財政政策をGDPの構成要素に関連付け、LM曲線は貨幣への需要と供給が均衡する価格である利子率を決定し、そしてある種のフィリップス曲線が経済が変化したときに価格水準がどのように時間とともに反応するかを表現するのだ。

科学として考えた場合、「一般理論」は並外れた成功をおさめた。「一般理論」が発端となった革命は、当時の最高の若い知性を惹きつけたのだ。彼らの驚異的な業績は短期的な経済変動を理解する新しい方法を提供した。サミュエルソン(Samuelson, 1988)は、この出来事について次のように簡潔に要約している。「ケインズ革命は20世紀の経済学にとって最も重大な出来事だった」。この心情は彼の世代の多くの経済学者に共有されている。

しかしながら、ケインズ革命は科学上の発展としてのみ理解されるべきものではない。かなりの部分において、ケインズケインジアンのモデル製作者たちはエンジニア的な考え方を持っていたのだ。彼らは現実の世界の問題に突き動かされ、ひとたび理論を構築した暁には、熱心にそれを実践に適用したのだ。ケインズ自身も、1941年に没するまで、政策的なアドバイスの提案に深く関与していた。そしてまた、米国の初期のケインジアンたちも同様だった。トービン、ソロー、エクスタインたちはすべて、1960年代には大統領経済諮問委員会で働くために、研究生活から離れて過ごした。最終的に1964年に通過したケネディの減税は、様々な意味において新興のケインジアン・コンセンサスとそれを具象化したモデルの直接の結果だったのだ。

【続く】