「国家の罠」(ASIN:4104752010)

感想。とにかく抜群に面白い。文句なくお勧め。今更ですけど。

内容の正確さについては既に方々で言及されているだろうから、僕が何か付け足すようなことはないだろうと思う。ひとつだけ挙げるとしたら、読んでいてなんか既視感があるなあと思ったらシュペーアの例の本だったことかな。内容の正確さに関して僕が思ったのはそれだけ。だってわからんのだもん。著者が言うように、30年後にすべてが明らかにされることを望みたい。

ということで、この本の後半に言及されている、日本が現在向かっている方向性について思ったことを書いてみる。

著者と同様、僕も現在の日本の置かれている状況に非常に危機感を覚えていて、それについては過去に何度か書いたように思う。具体的には、まさに著者が292ページで指摘しているような、内政におけるケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換と、外交における地政学的国際協調路線から排外主義的ナショナリズムへの転換、の二つの路線変更がものすごく気持ち悪いのだ。

そしてこの気持ち悪さの源泉には2つの理由があるように思った。ひとつは著者も指摘しているとおり、この2つの路線は本質的には相容れないものであることだ。この2つの路線が現実に並存していることが即ち現在の政治の方向性はポピュリズムにより決定されていることを示しているように思える。またこの2つの路線が並存するためには、つまりポピュリズムが蔓延するためには、そこに反知性主義的な雰囲気がなければならないように思う。

そして僕には、これら現在主流となっている3つの雰囲気、つまり1.ハイエク型傾斜配分路線=シバキアゲ路線、2.排外主義的ナショナリズム、3.反知性主義は、結局はこの10数年の日本の長期不況からきているものとしか考えられない。

これがもうひとつの気持ち悪さの源泉、つまりどうして歴史から学ぼうとしないのだろうか、という点だ。日本が上記3つの雰囲気に支配された時代が過去にもあった。昭和恐慌期だ。金融的な問題は高橋是清等の采配で収束したが疲弊した農村は収まらず、部下の家庭の窮状に憤慨した青年将校の暴発により時代は大きく動いてしまった。

時代の雰囲気とはどのように形成されるのだろうか。時代は何がきっかけとなって動くのだろうか。まだ勉強を始めたばかりなのではっきりしたことは言えないけれども、ひとつだけ言えるとしたら、政府や軍や官僚や企業やマスコミや外国政府が悪く国民はその被害者なのだ、という意識では状況は良くなるどころか悪くなるばかりだということだ。感情的なリベラリズム反知性主義的という意味で排外主義的ナショナリズムと同じものに僕には見えるのだ。

楽観的な啓蒙主義に期待できるほどウブでなくなってしまった自分が恨めしい。と書けるだけ僕はまだウブなんだろうか。わはは。ともあれすべてが手遅れにならないように祈りたい。問題は誰にもしくは何に祈れば良いのだろうかという点なわけですけど。つまり誰が歴史から学んでいないのか、ということか。南無南無。