ニートについて語ったら負けかなと思ってる

というわけであれこれ考えてみた。id:hizzzさんのコメントに大いに触発されたところあり。というか前半はhizzzさんへのお返事だったのだけど長くなったのでこちらでとりあげることにした。非常に中途半端なんでアレですがとりあえず、ってことで。

ニート」とリベラル(僕の用語で言えば「変なリベラル」(笑))の親和性が妙に高いのはやっぱり気になるところ。なんかそうやってリベラルとの関係で考えると、いわゆる「ニート」のうちの高学歴な自発的失業者の問題って、皮肉なことに60年代後半の学生運動とちょっと構造的に似てる気がする。まだまとまってないので思いつきですがつらつら書いてみます。

50年代までは大学へ進学するのは本当のエリートだけだったのが、60年代後半に一挙に大学進学率が高くなり、大卒者と世間(特に企業)の期待値に乖離が生まれた、という話がある(「教養主義の没落」竹内洋ASIN:4121017048)。つまり大卒=エリートという図式が崩れ、大卒でもただのサラリーマンとなったのが60年代の後半から。

一方でその頃の若年層人口の全人口に占める割合は一番大きかった。それで個々の学生の鬱憤が社会的な運動にまで発展してしまった、というのが学生運動というわけわからんものだったと。言ってしまえば単なるベビーブーマーの暴走なので、世界同時発生的だったのも頷ける話ではある。ちなみに文化大革命イラン革命も現在の中東の不安定さも、時代は違えども全部この若年層人口の割合で理解できる話(その意味でも今後のサウジは怖いです。70年代と比べて人口倍になってますからね・・・)。

で、「ニート」の(うちの高学歴な自発的失業者の)話に戻ると、結局これって学歴あるのに思い描いていたような職に就けない人たちの話なわけで、敷かれたレールに沿って生きてきたらなんだよ話が違うじゃないかよ、ってとこで戸惑ってるのかな、と。学生運動の時と違うのは、人数が少ないから横との連携も取れずひきこもらざるを得ない点。

この文脈で考えた際に興味深いのは次の3点だと思う。僕には時間も知識も能力もないので深堀り出来ないけれども、誰かやってくれないかしらん。それぞれ社会学の卒論くらいにはなりそうなんだけど。

1. 戦前の「大学は出たけれど」時代との関係
ま、当時のそれは正真正銘のエリートだったわけですが、これも含めると学歴に対する期待の変化(齟齬?)が日本では3回あったことになる。理由、背景、影響、他の国ではどうだったのか、など興味深い。

2. マクロな景気との関係
学生運動時は、69年をピークに73年の石油ショックまでGDP成長率は低下、その後の低成長時代の転換期にあたる。「大学は出たけれど」はまさに昭和恐慌の時のお話。今の「ニート」は15年にならんとする長期不況の話。

3. 「ニート」の今後:マクロとミクロ
「マクロ」というのは今後も「ニート」は生まれつづけるのか?という話。「ミクロ」は現在の「ニート」はどうなるのか?という話。個人的には、「ニート」たちは親のお金で食っているので、親たちに余裕が無くなれば自動的に消滅するだろうとは思う。つまりあと5年もすれば社会問題ではなくなる(ほど少人数になっている)のではないかと。

って考えたら「ニート」って括ってる時点でこんなところへは目が向かないのだろうなあ。何でもかんでも一緒にしたらいかんよ本当に。趨勢的な変化と循環的な変化は分けて考えないとね。

あと、個人的には「ニート」たちへの視線がつい厳しくなりがちなので気をつけたいところ。シバキアゲ構造改革主義者と変らなくなってしまうからなあ。わはは。って笑い事じゃない。