そうだ。

性格判断の話から性格の話。僕は性格ってのは望めば変えられるものだと考えていて、事実僕自身の性格も昔と比べると大きく変わっているように思われ、またその変化は全て自分が望む方向へのものだ、という認識がある。
「性格」という名前/ラベルが、(例えば)「ある人間のある程度長期に渡って継続する振る舞いや考え方」という概念に割り付けられているので、これは何かしら固定したものでありどうしようもないようなもののように思えるけれども、結局自分はどういう人間になりたいかがすべてなのだから、自分で変えられないわけがないのだ。
もちろんすべてどうにでもなるとは思っていないよ。なんともならんものはなんともならんだろう。でもどうにかしようと思ったらどうにかなるもんだ、という可能性は試す前に捨ててしまうのはもったいなさすぎるように思う。もっともそういうもったいない人達は可能性を捨ててる意識すらないんだろうけど。君たちはワクにはまるのが好きすぎる。
ところで僕の経験では、excuseが思い浮かぶようだとその行動は変えることが難しい。例えば、今の僕は整理整頓をしない人間なんだけれども(周りからは「整理整頓が苦手な/できない人間」と見られているだろう)、それはそんなこと馬鹿らしくてやってらんないと考えているからに決まってるのであって、それでいいのだ。わはは。
って、こうした自分にとっては激しく自明な選好であっても、別の性格の自分(他人じゃないよ)にとっては単なるexcuseだ、という認識を持つことは、自分の性格の自由度を上げる上で、ひとつのポイントだと思う。
もうひとつのポイントは、ある特定の行動を単独で変えるのは難しいということを認識すること。先の例の整理整頓にしても、それを重要と思うか/どうでも良いと思うかという選好は、例えば、締め切りや約束は必ず守らなければならないと考えるか/事情によりなんとかなると考えるか、「正しいこと」とはどんなことだと考えるか、望ましい個人や社会のあり方をどう考えるか、といったもっと大きな/抽象度の高い/メタなレベルの選好と結びついている。つまり、考え方ではなく、考え方の考え方のお話になる。
だから、例えば柔軟性を担保することが規則を遵守することよりもより重要だと考えている人間が、整理整頓を行うように努力することは非常に難しいことだと思う。というか無理だ。変えたいなら根こそぎ変えなければいかんのですよ。
そして、そういう根っこの選好(考え方の考え方)は確かに変えることは難しいのだけれども、にっちもさっちもいかなくなったり、もしくは同じことをポジティブに言い換えてるだけだけれども、どうしてもそうなりたくなったりした場合には、どうにかなるもんだと僕は思う。要は、「これからずっと続く変わらない自分」の状況の苦しさ/惨めさと、「変わろうとすること/今までの自分を否定すること」の苦しさ/惨めさのどっちをとるか、というトレードオフの問題なのだ。同意できませんかそうですか。
でももし今の自分がイヤでどうにもならないのであれば、まわりを変えようとするよりも自分が変わった方がよっぽど早いんじゃなかろうか。自分なんて、そんなに確固とした/不変の/独立して存在する/神聖な/不可侵のモノじゃないでしょう。望むものは探すよりなった方が断然早いのだ*1。ていうか探してもどうせ見つからんし。だってここに最初からあるんだから。

というようなことを誰に宛てて書いているのかと申しますと、未来の自分へ、でございます。わはは。数年後(もしかしたら数週間後)の自分にとっては、上に書いたことが自明でなくなる可能性が大いにあるので。ってアルジャーノンですか僕は【それはネズミの名前じゃsvnseeds】。

*1:って、これアラン・ケイの例のせりふみたいだなあ