修辞学という技法−「経済学という教養」(稲葉振一郎著)

bewaadさんによる「経済学という教養」(ASIN:4492394230)の書評。まるで僕のために書かれたような文章だ。わはは。
心に響いたところを引用させてもらうと;

とりわけ冷戦終了後に知的成長を果たしたであろう30代以降の人間にとっては、マルクス経済学はデフォルトで時代遅れの産物とみなされているわけだが、他方でそれ以上の世代(特に「人文系」である人々)にとっては、相当程度マルクス主義的な考え方の影響が残っている。 そうした若き世代が世に通じる議論をするためには、より上の世代に通じる言葉を用いて語っていく必要がある−世代交代まで漫然と時を過ごすのであれば話は別だが。

<中略>

世代を超えて自分の主張の理解を求めるならば、本書を読んでマルクス経済学に代表される「人文系」に親和性の高い修辞法に触れることは、最低限求められる技法であるのだ。

うーん、僕は割と世代交代まで漫然と時を過ごそうかと思っているのだなあ、とこれを読んで思いましたよ。というか、上の世代に通じる言葉を習得するのは時間の無駄というか、そんなことするくらいだったら彼らがみんな墓の下に納まるまで待った方がマシだと思っているというか。

  • そしてみんなして大学に行くようになった60年代終わりに「教養人・知識人」というカテゴリそのものが崩壊した。
  • そのため元「教養人・知識人」は彷徨うことになり、明確なレッテルが貼られないまま「文化人」という曖昧なカテゴリの中で生き続けることになって現在に至っている。
  • 今のプチ右傾化は戦後のゆり戻しのゆり戻しであり、そしてこれは若年層の失業率が高まったことと大きな関係がある。戦前のそれと幸いにして異なるのは若年層人口が全人口に占める割合がそれほど高くない点だ。

・・・というのが僕の「教養」とか「知識人・大衆」に関する今のところの理解でして。で、僕は次回のゆり戻しによる左傾化の際にはマルクス主義の呪縛から完全に解き放たれることが重要だと思っておるのでして(モンテ・クリスト風)。
なので、上の世代と対話する必要はあんまり感じてなくて、彼らの仕事が「完全に終わったもの」として僕らの下の世代に受け渡されればそれで良い。だから僕らの世代の仕事は彼らと対話するのではなく、彼らの仕事をゴミ箱に放り込むことじゃないのか、と思う訳です。ダメかなあ。
もっと言ってしまうと、今のプチ右傾化しちゃった純粋な若者達(笑)にも上のような歴史を知ってもらって、自分の立ち位置をもう一度確認してもらいたいなあと思う。ダメかなあ。わはは。