消費文化とか

っていうけど、大抵「消費は良くない」って文脈で使われている。何で消費は悪いものだって思ってる人が多いのかなあ。毎日生きるために食べるのも消費なんだけど。
そういったことを言う人たちは、1.「必要な消費」と「不必要な/過剰な消費」(もしくは「良い消費」と「悪い消費」)という分類が存在する、2.それら分類の決定は、消費する人ではなく別の誰かによっても行われ得る、ということを前提してしまっていることに気付いてんのかな。生きるために何が必要かぐらい自分で決めさせてくれ、と思うんだけど人に決めてもらった方が良いのかしらん。気の毒だな。
ていうか「欲しがりません勝つまでは」って強力なキャッチだったんだなあ、とつくづく思う。あともちろんインテリ=社会主義の流れ(戦前と戦後の2回)も大きいだろうな。バカらしい。

社会って不自由で息苦しい?

僕は全然不自由も息苦しさも感じてないみたい。それが原因で先日のid:kagamiさんとのやり取りや、例の一連の「降りる自由」の話が最初どうも噛み合わなかったり、またコンビニが平準化を強化するって話にぴんとこなかったりするんだろうな、と気付いた。
一応、僕も色々問題は問題と認識してはいるのだけど、その受け止め方に大きな温度差があるみたい、ということだ。どうしてかなと考えたところ、僕はおおむね次のように考えているので、ある問題を認識したときに不自由さや息苦しさを感じないらしい。

  • 長期的にはもろもろの問題はいずれ解決すると考えてる。なお「解決できないので放置決定」も解決のうちと考える。また長期的にはもろもろの新しい問題が生じるので、すべての問題が長期的に解決するとは考えていない。
  • 短期的にはもろもろの問題は自分の気の持ちようでどうにでもなると考えている。逆にいうと、自分の気の持ちようでどうにもならないものは「長期的な問題」と認識してるのかもしれない。

要は全部ほっとけ、ってことになっちゃうわけですが。みもふたもないなあ。わはは。
で、どうしてこんなふうに考えているのかな、と考えてみると、たぶん僕はラッキーで鈍くてひねくれてるくせに人を信用しすぎなんだろう、と思った次第。だから今後どうなるかはわからんなあ、と。ますますみもふたもない。わはは。
更に考えを進めてみると、社会が不自由で息苦しいと感じている人たちの主張を耳にしたときに、むしろ息苦しさを感じることが多いかもしれない。例えば上の消費文化うんぬんとか。ほっとけ、と思ってしまうことも含めてほっとけと思ってしまうので実害ないからいいんですけど。
更に更に考えてみると、そういった僕がほっとけと思ってしまうことをちゃんと主張する人たちがいるから、僕は長期的には問題は解決されていくと信じることができるのであることだなあ(嘆息)、とも思う。ああここで環が閉じるのだ。
要はなんだかしょうもなく傍観者なのだな。どんな問題も自分の問題だと思わなければ不自由さも息苦しさも感じないわけだ。で、そういった「立ち位置」を批判されると不自由さや息苦しさを感じると。なるほどなるほど。
えーと何が言いたかったかというと、早起きは三文の得ってお話でした。わはは。書いてみないと気付かない話ってあるよなあ。

経済学者が身近な話題を経済学的に分析した本

遅れてすみません>id:sujakuさん。とりあえず知ってる範囲のものを挙げておきます。
全部持ってるんだけどちゃんと読んだ記憶があるのは最後の2冊だけ。なんで、一応コメント付けときますがあんまり参考にしないでくださいね。

  • 「ランチタイムの経済学」スティーヴン・ランズバーグ(ASIN:4478200319
    • 苺でも評価高いです。
  • 「ベッカー教授の経済学ではこう考える―教育・結婚から税金・通貨問題まで」ゲーリー・S・ベッカー(ASIN:4492312501
    • 有名です。
  • 「バロー教授の経済学でここまでできる!」ロバート・J・バロー(ASIN:4492313281
    • 更に極端かも。

どうしてこんなにオーストラリアはアメリカよりなのだろう

id:jounoさんのところから。本筋でないところで茶々入れてすみません(笑)。これ、オーストラリアは古きよきBalance of Powerのゲームをしてるんだと思います。
彼らは経済的にはアジアに飲みこまれつつあり(もちろんそのおかげで発展もしている)、バランスとるためにも環太平洋で文化的オリジンが同じ米国とはどうしても仲良くしておく必要があるんだろうな、と。