66周年

今日はいい天気。
あの時も東京は快晴だったんだよね。

半分くらい孫引きになっちゃいますが、今手元にある資料から、いくつか今日に関連するものを引用してみる。一部表記変えてあります。



木戸日記 昭和16年12月8日

十二月八日(月) 晴


【略】


七時十五分出勤。今日は珍しく好晴なり。赤坂見附の坂を上り三宅坂に向う。折柄、太陽の赫々と彼方のビルディングの上に昇るを拝す。思えば愈々今日を期し我国は米英の二大大国を対手として大戦争に入るなり。今暁既に海軍の航空隊は大挙布哇を空襲せるなり。之を知る余は其の成否の程も気づかわれ、思わず太陽を拝し、瞑目祈願す。


七時半、首相と両総長に面会、布哇奇襲大成功の吉報を耳にし、神助の有難さをつくづく感じたり。


十一時四十分より十二時迄、拝謁す。国運を賭しての戦争に入るに当たりても、恐れながら、聖上の御態度は誠に自若として些の御動揺を拝せざりしは真に有難き極なりき。


宣戦の大詔は渙発せられたり。


【略】


天皇百話 上の巻 pp. 510-511

高松宮日記 昭和16年12月8日

十二月八日


【略】


外国ノ放送、米海軍の無電ノ傍受ノミデ中々戦闘概報来らず。殊に台湾は朝霧ありて飛行機出発せず。それが出発したかどうかわからず、ハラハラさせられた。


馬来上陸は上陸開始とのみで、上陸後の模様わからず。


夜、十九三〇頃にボツボツ機動部隊、台湾等の概報来り、パールの戦果大成功にてよろこぶ。


「ガム」はやりすぎる位に爆撃ス。


「ウェーキ」も甘くいつた。


第七駆逐隊ノ「ミッドエイ」砲撃も焔上させた。


東条首相の詔勅発表直後の話は、文も話振りも上出来。


二二〇〇皈邸。灯火管制、ヒツソリしてゐて町の中マツ黒なり。入浴、ねる。一安心なり。併し、前途猶遠き感深し。


【略】


高松宮日記 第三巻 p. 327

入江相政日記 昭和16年12月8日

十二月八日(月) 快晴 快適 六、三〇 一一、三〇


いよいよ日本は米英両国に宣戦を布告した。来るべきものが来ただけの事であり却つてさつぱりした。


【略】


零時半のニユースによると遠くハワイにまで爆撃に行ってゐる。痛快だ。一方シンガポール、フイリツピン、グワムは勿論、馬来に敵前上陸。泰と共同、馬来より進入した英軍を撃退中との事。


【略】


宮城前には大学生の旗を持つての行進、その外民草の奉拝引きも切らず。


【略】


七時五十五分電報で召集される。布哇ではウエスバージニアオクラホマの二隻撃沈、その他四隻大破、大型巡洋艦四隻、航空母艦一隻、運送船一隻。マニラでは飛行場二ケ所で夫々五十機撃破、何と嬉しいことであらう。侍従長、鮫島さんと握手する。


【略】


入江相政日記 第一巻 p. 272

「その日の日本人の証言――『真珠湾の日』より抜粋 半藤一利」より

【略】


四十一歳の作家尾崎一雄はそうした多くの人の気持を代弁するかのように明快に書いている。


「蘭印を圧え、仏印をとり、印度をおさめ、支那をみだし、欧米諸国のうち、もっともその罪大なるは英国である。米国は『世界の英語を話す二大国民』のよしみで、ことごとに英国を支持し、事変(註・日中戦争)以来支那を己が前衛として躍らせる上に、着々として日本包囲陣を結成した。英国が対独戦で手いっぱいだから、東亜干渉の役は米国が引受けたわけだ。(中略)世界の『秩序』を変えるのなら平和的手段に依れという。平和的手段とは何か。金と物資を有り余るほど持ち、それを出したり引込めたりして相手を圧えることだ。勤勉な日本人は、働きに働いて品物をつくり、これを輸出して暮しを立てようとする。すると、そこに忽ち高関税の障壁がもうけられる。(中略)アングロサクソン人を亜細亜から放逐せよ、と叫びたい。彼らは彼らの犯せる罪を背負ってその生まれた所へ帰ってゆくがいい」


【略】


大学教授で評論家本多顕彰(四十三歳)はわかりやすく、開戦のニュースを聞いたあとの決意のほどを書いている。


「『敵性』という呼称が廃せられて、『敵』というはっきりとした呼称が用いられるようになって、私のみならず、国民全体がからっとした気持だろうと思います。聖戦という意味も、これではっきりしますし、戦争目的も簡単明瞭になり、新しい勇気も出て来たし万事やりよくなりました」


大森山王草堂で『近世日本国民史』の「征韓論」の篇を執筆していた徳富蘇峰も、感動をそのままに日記に綴っている。七十八歳。


「只今我が修史室の一隅にあるラジオは、今晩西太平洋上に於て、日本が米英両国と交戦状態に入りたるを報じた。予は筆を投じて、勇躍三百。積年の溜飲始めて下るを覚えた。皇国に幸運あれ、皇国に幸運あれ」


【略】


なかには激情をほとばしらせている人もいる。


斉藤茂吉歌人)、五十九歳は日記に大書する。


「昨日、日曜ヨリ帝国ハ米英二国ニタイシテ戦闘ヲ開始シタ。老生ノ紅血躍動!」


旅行先の満洲国の奉天で開戦を知った作家林房雄も、日本への報告に書いた。三十八歳。


「大変であろうがなかろうが、もうこれ以上我慢できないのだ、国民はみな大変に臨む覚悟をつけている。決戦態勢は国民の胸の中では夙の昔につけているのだ。あわてることはない」


【略】


六十二歳の作家永井荷風は、この日の朝に、小説『浮枕』を蒲団のなかで起稿した。まったく発表のあてのなくなったことを知りながら、原稿を書きついでいたが、夕暮れ近くになって町へ出た。その日記にはこう記されている。


「日米開戦の号外出づ。帰途銀座食堂にて食事中燈火管制となる。街頭商店の灯は追々に消え行きしが電車自動車は灯を消さず、省線は如何にや。余が乗りたる電車乗客雑沓せるが中に黄いろい声を張上げて演舌をなすものあり」


【略】


評論家中島健蔵(三十八歳)は「ヨーロッパ文化というものに対する一つの戦争だと思う」と述べ、同じく小林秀雄(三十九歳)も語った、「戦争は思想のいろいろな無駄なものを一挙に無くしてくれた。無駄なものがいろいろあればこそ無駄な口を利かねばならなかった」。


【略】


昭和史探索 5 pp. 415-430

米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書(昭和十六年十二月八日)

天佑ヲ保有万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ


抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民国政府曩ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ヲ平和ヲ攪乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ経タリ幸ニ国民政府更新スルアリ帝国ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剰ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与ヘ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ


朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ弥リタルモ彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス


 御名 御璽


昭和十六年十二月八日


国務大臣副署


昭和史探索 5 pp. 367-369

ルーズベルト大統領が12月8日午後1時(日本時間9日午前3時)に上下両院合同会議で読み上げた教書の一文

十二月七日は汚辱のなかに生きる日であります。(略)日本の航空隊がオアフ島を爆撃してから一時間後に、日本大使とその同僚は、最近のわが提案への公式回答をもって国務長官を訪問したのであります。(略)日本とハワイ間の距離を考えると、日本の攻撃が何日も、いや何週間も前から計画されたことは明らかです。日本政府は、謀計によりアメリカをだまし撃ちにしたのであります。


昭和史残日録 p. 249