激しく今更且つどうでもいい話なんですが

bewaadさんのこのエントリ経由でessaさんのこのエントリを見たのだけれど、(お二人には大変失礼ながらこれらエントリのテーマに全然関係ないところで)今更ながらものすごく違和感をおぼえた点があったので書いてみる。

というのもessaさんの当該エントリ冒頭に引用されている梅田氏の2年前のこの文章なんだけど;

個人にある種の才覚とネット上での行動力さえあれば、リアル社会に依存せずとも、ネット上に生まれた十分大きな経済圏を泳ぐことで生きていける。

これって、次のように変更しても何の違和感もなく説得力を持つと僕には思われる。

個人にある種の才覚とリアル社会での行動力さえあれば、ネットに依存せずとも、リアル社会に既に存在する十分大きな経済圏を泳ぐことで生きていける。

というか後者の方が僕にとってはむしろ違和感ないしより説得力もある。こんなことは当たり前過ぎて誰も言わないだけだ。

で、こうやってちょっと対比してみると明らかなんだけれども、要するに最初の梅田氏の文章のポイントは、実は「ネット上」か「リアル社会」かの違いなんてのは全然関係なくて、結局「ある種の才覚」と「行動力」が生きていくには重要なんだよ、ってことになる。

こう書いちゃうとやはりこれも実にミもフタもない当たり前の話だ。でもそんなおっさんの説教のような陳腐な話も、最初の引用のように「ネット上」を強調して書いてみるとあら不思議、なんだかとってもバラ色の夢あふれまくるお話になってしまう。

「リアル社会」では発揮することが難しい「ある種の才覚」と「行動力」は、「ネット上」だったら簡単に(少なくともなんか希望を与えてくれる程度には相対的に簡単に)発揮できるんだろうか。そんなことないよねー。つまりこれは大いなる錯覚だ。結果として現実に生み出されているのは大量のスパムTBなんだから。

じゃあこの錯覚の出所は何なのかというと、まあひとつは当然ネットが新しい(って言ったってMosaicの登場からもう14年ですか・・・)ことによるフロンティア幻想みたいなものがあるはずだ。ロングテールうんぬんとか*1

でもたぶんこの話はそんなに単純じゃなくて、「ネットだと何とかなっちゃうかも」幻想の背景というか深層には、たぶん「リアル社会」への深い諦めがあるように僕には思えてならない。で、この諦めの出所は、この15年近く続いてきた不況のせいだろうな、と。

端的な証拠の例として、フロンティアとしてのネットへの期待は世界中で(未だ懲りずに)見られる一方で、上の梅田氏の引用に端的に現れている「ネット」と「リアル社会」を対立的な構造と見る姿勢ってのは日本でしか見られないような気がする(Matrixみたいなオタクの妄想としてはアリだと思うけど)。どうすか【誰に問うのかsvnseeds】。

何が言いたいかというとですね、「リアル社会」への諦めが深い人ほどネットが余計にユートピアに見える傾向がたぶんあるのだけれど、その「リアル社会」への諦めをネットで昇華しようとするあまり、これらをなんだか二者択一の対立的な構造と見るのは不毛なんじゃないの、と。

更に言うと、その「リアル社会」への諦めの原因、つまり「リアル社会」が生き辛くなっているのは何故なのか、これは趨勢的な傾向なのか一時的なものなのか、不可逆な変化なのかどうにでもなるものなのか、もちょっとは考えると、過剰なネットへの期待が適正レベルにまで落ちて良いんじゃないかな、と。

ってこんなこととっくに誰かが言ってますかそうですか。梅田氏の著作一度も読んでないんでどうもすみません。ではでは。

*1:でもロングテールって、結局それで得するのって、実は情報発信者では全然なくて、情報受信者と中間でロングテール情報を束ねる者なんだよね・・・。Googleは何で儲けていてそのカネは誰が出しているかを考えれば明らかだけれども。ロングテールって言ったって単に情報の取り扱いが変わるだけであって、ビジネス上の原則が劇的に変化するわけでは全然ない。ニッチはニーズが少ないからニッチなんであって、ニッチが食っていくのは定義により大変だってことは、ロングテールでaccessibilityが上がったからって劇的に変わったりしない。むしろ競争が細かいニッチにまで持ち込まれるので余計大変になるような気がするんだけどどうだろう。こんなことはとっくに誰かが考察してますかそうですか。