機会の平等よりも結果の平等の方がコストがかからない?

稲葉先生のところより。稲葉先生はこれはまだopen questionだとおっしゃっているように見えるわけですが、僕にはかなり疑問です。この方面に不案内のため落とし穴や地雷がたくさんあるのを承知で少々書いてみます。

結論から言うと、確かに結果の平等の方がコストがかからない状況もあるだろうし、それについて詳しく調べられていないのも事実かもしれません。でもコストを理由に結果の平等を目指すことはできない、と僕には思えます。要するにどちらの平等を選択するかという問題に関してコストは考慮すべき要素とはなり得ず、また結果の平等を擁護することもできない、と。



まず、確かにどんな組織にしろ社会全体にしろ、局所的にはコストメリットを持ち出して「結果の平等」を擁護できるかもしれない。

でも大局的にはそれはパイの縮小をもたらし、やがては誰も満足できない「平等な結果」へ落ち込んでしまうように思える。

更に悪いことには、「平等な結果」に満足できない人々の欲求を無理にでも押さえつけない限り、「結果の平等」の導入はかえって不平等な格差の拡大・維持・定着に寄与するように思える。

で無理に押さえつけると旧共産圏の悪夢の繰り返し。要するにどっちに転んでも「結果の平等」は目指すべき目標としてはよろしくない。ように思える。



問題は、「平等な結果」に満足できない人々はあらゆる手段を尽くしてそれ以上の結果を求めるだろう、ということだ。この人間の本源的な欲求はどんな社会システムであろうと無くすことはできない。

だから、「結果の平等」を目指すには、誰もが満足する非常に高い水準の結果を用意してやる必要がある。

しかしながら、(そもそもそんな高い水準の結果を全員に用意することが可能だとしても)残念なことに結果が平等だと大抵の人間はパフォーマンスが落ちる。これも悲しいことにどんな社会システムだろうと変えることができない人間の本質的な仕様だ。

で、個人のパフォーマンスが落ちれば組織や社会のパフォーマンスが落ち、再分配の原資であるパイは縮小する。そのため、組織や社会全体として高い水準の「結果の平等」を維持することは不可能となる。

そして、用意された「平等な結果」の水準が下がると、それに満足できない人間はあれこれやりだし、結果として格差が広がることになる。

ここであれこれやる人々を押さえつけることができなかった場合、既にどこにも「結果の平等」は無いにも関わらず、お題目としては「結果の平等」が存在するため、それに安住する人々も存在し続けるだろう(そうでなければこれは結果的に組織や社会が「結果の平等」を放棄することに等しい)。

その結果として、低い水準の「平等な結果」満足できない人々はより高い水準の(不平等な)結果を目指し、安住する人々は全体として下がっていく水準に付き合うため、格差は拡大しながら維持・定着されることになる。

一方で、あれこれ高い水準の結果を目指す人々を無理やり押さえ込んだ場合、行き着く先は誰も満足しない低い水準の結果の平等な共有、つまり「平等な不幸」となる。

と思うんですがどうでしょう。要するに、仮に局所的に「機会の平等」の方が「結果の平等」よりもコストがかかったとしても、それはいわば大局的な水準低下を避けるための必要コストなんじゃなかろうかと。



それと、稲葉先生のところ経由のきしさんのところでは「(そもそも)機会の平等って何?」って疑問が挙がっているわけですが、それを言ったら「そもそも結果の平等って何?」って話にもなります罠。

平等問題を考えるということはイコール格差問題を考えることだと思うのだけど、「結果の平等」を重視する人々は、相対的な格差、つまり(例えば経済的な格差が問題だったとして)富める者と貧しい者の差そのものを問題視しているように僕には思える。

しかしながら、そうした相対的な格差よりも重要なのは、(再び経済的な格差が問題だったとして)貧しい者の絶対的な経済水準であると僕は思う。金持ちがどれだけ金持ちになろうと知ったことではなく、本当の問題は底辺にいる人々を救うことであり、それには資源の再分配が必要で、その原資を確保するには「結果の平等」を放棄し、「結果の不平等」を受け入れる必要があるのだ。

じゃ「機会の平等」ってなんなのよ、というと、僕が思うに、これは格差が固定されない最低限の水準(所得であれ学歴であれ)を保障することであると。要するにほとんどの人が「金持ちがどれだけ金持ちになろうと知ったことか」といえるようになれば良い。



もちろんここで書いた「機会の平等」が実現されているとかかつて実現されていたとか言うつもりは毛頭ありませんよ。それにその「最低限の水準」てのがどんな水準なのかも議論の余地大有りだし、「人間の欲望は限りがない」のも人間の本源的な仕様ではあるし*1

しかしながら、我々が目指すべきは「機会の平等」であって「結果の平等」では断じて無く、これは局所的なコスト比較によって選択され得る問題でもないのだ。と激しく思う次第でございます。

ってここまで書いといてアレですが「結果の平等」が何を意味しているか良くわかっていない可能性大なのでとりあえず「所有と国家のゆくえ」読んでみます。ヘタレですいませんすいません。

*1:でも、「人間の欲望は限りがない」とはいえ、結果が平等でなければより高い水準の結果を得るには相応の負担が必要であり、ほとんどの場合効用は逓減するので、必然的に能力その他に応じて欲望であってもある水準に落ち着くものではある。問題はその落ち着いた水準の絶対的なレベルにあるというのが僕の見解。ただし幸不幸は他者との相対的なレベル感にも大きく影響されるらしいので、あまりに大きな相対的格差の存在は問題となり得ちゃうであろう。でもそれは二次的な問題。