コミュニティとオリジナリティ

gachapinfanさんのところなどを読んでふと思ったのだけれど、オリジナルであろうとすることとコミュニティを志向することとの間に整合性はあるのだろうか。いやなんかそのどちらも欲しいと思っている人が多そうな気がしたので。僕の勘違いですかそうですか。
極端な話、世界で僕しか興味を持っていないことについて語り合える人は定義により僕以外に存在しない。オリジナルであるというのはそういうことだ。
だからコミュニティを志向するということはつまりオリジナリティの(少なくとも部分的な)放棄を意味することになる。
要するにオリジナルであろうとすることとコミュニティを志向することとの間には明確なトレードオフが存在すると僕には思えるのだなあ。どうすか。
あー、メタに考えれば「興味があることのポートフォリオ」がオリジナルであるという話もできるのかな。しかしこれは不毛っぽいというか、これについて話をしてもあまり面白くなさそう。それ言ったら究極的には一人ひとりがみんなオリジナルで「一人ひとりみんな違う、た い せ つ な ひ と」的な「変なリベラル」っぽい話になってそもそもオリジナリティって何よって話になりそうだ。南無南無。
個人的にはコミュニティなんてのは後からついてくるものではないかと。コミュニティを志向したら負けかなと思ってるというか。わはは。
って僕はひとりでいるのが好きだし、好むと好まざるとに関わらずひとりでいることが多いので、知らないうちにそういう自己が形成されたのだろうか。というより、もしかしたら自分が中心となって形成されたコミュニティ以外興味が無いのかもしれない。あなんかビンゴかも。ううむそうだったのか。なるほど。
・・・なんか似たような話を昔も書いたと思ったら「僕とみんなと僕の考えるみんな」だった。これは自分が多数派に属するか少数派に属するかに関してのメモだな。id:Bonvoyageさん元気かな。