意味がよくわからないのにやったほうがいい、ということの意味について

id:kmiuraのところより。なんか似たようなことを昔考えたことがあったなあ、と思い返してみると、「我慢しないと見えてこないもの」だった。あれ、なんか微妙に違うな。どこが違うかというと、僕が前に書いたものでは、やったほうがいい対象が自分であるのに対し、kmiuraの今回の文脈では、それが自分以外の誰か(主に子供)である点かな。
確かに近年、「意味がよくわからないのにやったほうがいい、ということの意味」は失われてしまっているように僕にも思える。それは変にものごとが相対化してしまったおかげだろうと思う。そして、個人的には、現在多く見られるそうした世界に対する態度(「意味がよくわからないならやる必要はない」とする態度)はスジが悪すぎると思っている。
みんな意味が好きすぎるんだな。意味を求めすぎるのは危険だ。究極的にはヒトが生きていることにすら意味なんかないんだから。いやむしろ、意味は自分でなく他人の中にしかないと言うべきか。つまり意味とは関係であって単体で存在するものではない。それなのに、なんと多くの人が自分の内に意味を見出そうと空しい努力を続けていることか。南無南無。わはは。
自分の内に意味が存する、と前提してしまえば、「意味がよくわからないのにやったほうがいい、ということの意味」なんか考えることすらできないだろう。そして最初から明白な意味があることなんか滅多にないんだから、不幸にしてそうした前提を持つ人は、意味を求めれば求めるほど、身動きがとれなくなっていくだろう。気付いたときには何に対しても情熱を覚えず、ただ世界から取り残されているという漠然とした焦りだけが残るだろう。そうして世界は色を失う。南無南無。わはは。
あーなんかこんなこと書こうと思ってたわけじゃないのに変だなあ。まあいいや。話戻して、kmiuraのところにid:sujakuさんが良いこと書いているけど、僕も創造性に関しては似たような好きな話がある。Tony Williamsがインタビュアーに、どのようにしてあのような特異なスタイルを身に着けたかを聞かれて曰く、自分は何も特殊なことはやっていない。やったこととすれば、1年間Art Blakeyになりきって演奏をし、次の1年間はMax Roachになりきり、そして次の1年間はPhilly Joe Jonesになりきった。それらの経験の上に今の自分がある、と*1
創造性というのは詰め込みの後にあるものだ、という真実を良くあらわしている話だと思うんですが違いますかそうですか。いやでもサイエンスにしたって巨人の肩に乗ってるわけだし。引き出しがカラなのにオリジナルなものなんか出てくるわけがないんだよね。
で、引き出しにモノを詰める作業には時間がかかる。時々ぶちまけて陰干しして整理整頓する必要もあるし。だから教師が生徒に何れ何事かを為させしめんと欲すなれば、その時点で生徒に意味がわかるかどうかなんかに関わらず、とにかく詰め込むのが最上手に違いないと僕は信じる。ええ違いないですとも。僕はそうやってドラムを習ったし、そうやって音楽を教えているし、たぶん自分の子供にも(音楽に限らず何事も)そうやって教えるだろう。不幸なのは僕にそうやって勉強を教えてくれる人がいなかったことだな。わはは。いや笑えない。
たぶん今は過渡期なんだろう。かつて詰め込みがあり、その後揺り戻しとしてのリベラル/相対化がベースとなったlet it beがあり、今はまたその揺り戻しの段階なんだろう。真に不幸なことは、良かれと思い行われた施策が、多くの人々を階層の暗い狭間に永きに渡って閉じ込めてしまう結果となりつつあるように見えることだ。それともこれは良かれと思い行われたものではないのだろうか【陰謀論入りsvnseeds】。いずれにせよ、既に散々指摘されているように、今回の揺り戻しで実際に戻ることができる人はごく一部でしかないんだろうと僕も思う。南無南無。
あーなんか暗くなってきちゃったな。こうした「カタ」の喪失の背景には、日本の特殊性(別に天皇制のことを言ってるわけでなく、アジアで唯一近代化を先駆けて成し遂げた国であることを言っている。考えれば考えるほど奇跡に思えてならない)に加え、戦前からの通奏低音の上に花開いた戦後のリベラル一辺倒に首までどっぷり浸かっているところへやってきた世界的なリベラルの衰退、といういわば100年単位の往復ビンタで立ち位置がすっかりわからなくなっちゃったことがあるに違いない、って言ったら言いすぎですかそうですか。
ということでコンサバの思想をちょっと齧ろうと思ってる次第で御座います。ってこれ前にも書いたなあ。意味無いなあ。わはは。

*1:順番やコピーしたドラマーは違ってるかもしれません。鵜呑みにしないでくださいませ