新聞と「ブログ」、ていうか超どうでも良い話題について

なんだか切込隊長さんのところえらく盛り上がっているようだったので一通り眺めてみた。と言っても隊長さんと湯川さんのやり取りだけだけど。
テーマとしては隊長さんと湯川さん、両氏とも言うように、超どうでも良い。新聞とネットの購読シェアが入れ替わろうがそれが何年後だろうが本当にどうでも良い。ていうか僕もう新聞読んでないし(代わりにこれ読んでます。新聞より安いし(値上がりするみたいだけど)とにかく名前が素敵w)。誰に殺されて死のうが勝手にしろって感じ。まもし新聞が死ぬとしたら自殺だと思うけど。わはは。
一方で大変興味深いと思ったのは、一体両氏がわかり合える日は(新聞が死ぬ前に(笑))来るのだろうか(修辞的疑問表現)、という点。僕は両氏の「立ち位置」の間には暗くて深い溝があって、それは新聞と「ブログ」の間に横たわるソレよりもよっぽど大きく見える。だから個人的にはこっち溝が埋まるのかどうかの方がよっぽど面白い問題に思える。
端的に言うと、隊長さんと湯川さんの「立ち位置」の違いは、僕にとっては、(何度かしつこく書いた)ある問題、特に自分の振る舞いが大きく影響を及ぼせない問題を眺める際に、それを経済合理的に眺めるか政治的に眺めるかの違い、だと思える。つまりネットオリジンと新聞オリジンの違いではない。もちろん両氏がそれぞれ一方の見方を完全に欠いていると言いたい訳ではなくて、あくまでも割合の話だけれども、隊長さんの軸足は経済合理性にあり、湯川さんの軸足は政治にあるように僕には見える。ってそう思うのは僕だけですかそうですか。わはは。
(あ、僕はここで「政治」を「経済合理性に基かない理知的な思考様式」ぐらいの意味で使ってます。それを代表するものが政治だと思ってるので。「政治」というタームが気に入らなければなんとでも読んで/呼んで頂いて結構です。むしろより良い用語があればご提案頂きたい所存でございます。)
で、僕はかなり隊長さんと同じような発想をするみたいなので(国際政治問題に関してはおっついてないのでだいぶん違うけれども。でも今後勉強を進めるにつれ彼よりの発想になりそうな気はしている)、彼が問題としたい点、ていうか絡みたくなった点は良くわかる。気がする。と思う。かもしれない。
結局隊長さんが言いたいことは、僕の理解ではこんなことだ;

  • 「ブログ」で食うのは(当面は)難しい
  • 一方、新聞は今のところ食えるし、今後も(当面は)食えるだろう
  • つまり、「ブログ」で食える人は新聞であればもっと楽に、もしくはもっと良いものを食えることになる
  • だから結局、「ブログ」で満足に食えるような仕組み/時代がくるまでは、「ブログ」は新聞の残りかす、もしくは別のものにしかならない

(あー、ここで「新聞」って言ってるのはたまた話題がソレなだけであって、「社会に影響力を持つメディア」一般で置き換えていただいて大変結構です。)
で、実はここには重要な暗黙の前提があると僕は思う。それは

「良いコンテンツ」=食えるコンテンツ=マスにアピールするコンテンツ=社会に影響を及ぼすコンテンツ

という図式が常に成り立っているというものだ。違いますかそうですか。
いやでも悲しいかな、日本ではかなり成り立っているように思う。わかりやすい例でいくと日本における日経サイエンスと米国におけるScientific Americanの人口あたりの発行部数が10倍以上違う【PDF注意】とか。いやホントかどうか知りませんけどね(そもそもていうかScientific Americanが「良いコンテンツ」かどうか異論があるかも知りませんが(個人的にはすごく良い雑誌だと思ってます))。
ま、でも日本の新聞は薄っぺらで(物理的なボリュームが、ではなく。でも日曜版は悲しいくらいボリュームも違うけど)論説というか論評が全然無いってのは海外の新聞(特に米国のもの)をちょっとでも読んだことあれば明らかなんじゃないかなあ。どうすか。
で、隊長さんが「絡みたくなってきた」のは、彼はそういった背景を踏まえて;

  • マスにアピールしながら「良い」コンテンツをどう維持するか(薄く広く課金するモデルってなんかないかな)

もしくは

  • マスにアピールしなくても食える仕組みをどう作るか(既存メディアとの差別化ってどうやって打ち出したら良いかな)

を考えているのに対して、湯川さんが「ネットとリアルな社会の溝にかかる橋の門番はマスコミだ」(超意訳)なんて暢気な(失礼)ことを書いたからに激しく他ならんわけですよ。言い過ぎた。だと思います。
僕の見るところ、その門番はマスコミのお客さんなんですよ。というか広く言ってジャーナリズム(ってナニよ)のお客さん、つまり読者であり視聴者が門番なわけですよ。結局良くも悪くもマスコミはお客さんのお金で食っている。そこのところに無自覚なまま、ジャーナリズム(ってナニよ)側の努力や夢だけで中身がどうにかなるようなこと書かれたら(つまり僕は湯川さんのこれをそう読んだわけですが)、そりゃ絡みたくもなるわいなあ。と思った次第で御座います。
で、この発想というかモノの見方というか考え方というか考え方の考え方というかの違いは、上に書いたように非常に根深いところに起因していて、ちょっとやそっとでは埋まらんだろう、と僕は思う次第。というかどうやって埋めるのか、手腕に期待しております>隊長さん。わはは。
あ、他にも、ネットって結局即時性を要求されるからお客さんを定着させようと思ったら、1.自分の「立ち位置」(生き様)ファンへ逐次時事問題へのコメントを提供する、2.(即時性をある程度無視して)自分の専門性を生かして時事問題とは離れたところでなんか書けるときだけなんか書く、のどっちかしか結局ないんじゃないかなあとか(これが先日書いたコメント欄の仕様の話になるわけだけど)、だとしたら複数人のライターが共同して「ブログ」を書いたら良いとこ取りだよなあとか(米国で既に事例があるそうですが)、でもそれで収入を得ようとしたら新聞とどこが違うんだろうとか、収入を得ないとしたら結局「熱い思い」しか続けるインセンティブは無い訳でそれって香ばしくなりがちだよなあとか、「利得のないところに情報は流れてこない」ってすごい誤解を招く表現だよなあとか、「論壇」って無茶苦茶ネガティブなイメージ(40年前の熱意と20年前の言葉でどうでも良いこと、特に自分は人といかに違うのか、を難しく仲間内で語るw)しかないので「論壇系ブログ」って名称はなんかやだなあとか、なんとなく「ブログ」ってカッコ付きで書いちゃうのはどうしてだろう(笑)とか、まあ色々あるんだけど面倒だし超どうでも良い話題なのでもう寝ます。
まとにかくしばらくは隊長さんと湯川さんのやり取りの行方(結論はどうでも良い)を生暖かく見守りたく思う所存で御座います。トラックバック飛ばしちゃえ。えい。どきどき。