言語の論理依存性って前提だっけ?

id:Ririkaさんへお返事。
この話、id:kmiuraのコメント欄にも書いたけど、僕が思いつきで全然関係ないレベルの話を持ち出してしまったのでぐちゃぐちゃになってしまったようです。申し訳ないです。
ここで言っている「言語の論理性」にはたぶん以下の3つのレベル/レイヤーがあって、話している人によってどこの話をしているのかが違っているみたい。

  1. 言語が持つ文法レベルの論理性
  2. 言語を共有する文化が許容する/要求するスタイル/修辞としての論理性
  3. 書かれていること、話されていること(つまり表現されていること)の論理性

kmiuraは最初2の点について話しており、Ririkaさんは3番目の点を念頭においているように思えます。1番目の点を話してるのは僕だけ。わはは。
で、僕としてはやまがたさんも言うように、言語によって論理性が左右されるとは全然考えていない。だからRirikaさんが書いているように、表現されていることの論理性について、言語によって強弱があるとは考えてないので念のため。そういうこと言う人は怪しいとも思ってます。
kmiuraの話はそのままだとそっちの結論になりそうでどうかと最初思ったんだけど、これはid:flapjackさんが言うように、教育という観点を導入することですっきり整理されたように思う。日本語の修辞法の「復活」が必要ってのは禿同です(ついでにディベートも導入して感情と議論をきっちり分ける訓練もしてもらいたいなあ)。
じゃああんたは一体何の話をしてたのよ、って言うと、完全に文法の話です。文法における論理性ということで僕が言いたかったのは、単純な話、例えば英語では動詞における三人称単数の扱いが過去形になったらなくなっちゃうんだけどこれってどうよ、ってそんな話。
どうしてそうなったのかって考えたときに、色んなところから色々動詞を輸入してきたらルールを緩めないとやっていけないんだろうな、と思ったわけで、これは本当にただの思いつきです(昔どっかでそんな話を読んだようにも思うけど)。
また、習得のしやすさっていうのも、がちがちに規則があって例外が少ない文法の方が非文を作りにくいはず、ってそんな程度のお話でした。kmiuraのコメントにも書いたけど、これは子供にとっての習得のしやすさなんで、大人にとっては規則が多い方が習得はしにくいでしょう。なんかコンピュータで自然言語を処理するときのことを半分念頭においてたかも。ホント全然関係なくてどうもすみませんでしたー。