似非相対主義者と市場原理主義否定論者

って似てるなあと思いついた。彼らの主張は、それぞれ科学万能主義者と市場原理主義者の主張を否定もしくは相対化する(ことで無効化もしくは弱体化する)ことが目的であり、暗黙の前提として科学万能主義者が科学者全体を、市場原理主義者が経済学者全体を代表していることになっている。
しかしちょっとでも勉強したことのある人なら十分承知している通り、まともな科学者の中に科学万能主義者なんていないし、まともな経済学者の中に市場原理主義者なんていない。更に、科学者も経済学者も(全体として見れば)自分達がやっていることを十分相対化して眺めるだけの冷静さを持っている。
だから、似非相対主義者や市場原理主義否定論者達の主張ってなんなんだろうと思わざるを得ない。存在しない敵を勝手に作って攻撃しているか、もしくは至極当たり前で既に十分に認識されていることを必要以上に大げさに騒ぎ立てているだけにしか見えない。
って、これだけだとただの道化なのだからほっとけの一言で終わる話なんだけど、どうにも気持ち悪いものが残ってしょうがない。この気持ち悪さはなんなんだろう、と考えていて思いついたのが、昨日の実証的主張と規範的主張の違いの話。もしかして、彼ら(似非相対主義者や市場原理主義否定論者達)は、科学/経済学(科学者/経済学者ではない)が規範的主張を行っていないことを批判したいんじゃないだろうか。つまりこの2つの主張をごっちゃに考えてるんじゃないか。
一見、彼らの主張は真っ当に見える。いわく、科学にしろ経済学にしろ社会に与える影響は非常に大きい。そのような力を持つ科学/経済学の方法論なり知見なりは相対化され批判的に評価されなくてはいけない。ごもっとも。ここまでは良い*1
問題は、彼らは「だから実証的主張をするときは規範的主張も合わせて行え」と科学/経済学(しつこいが科学者/経済学者ではない*2)に要求しているように見えることだ。そりゃダメダメに間違っている。科学や経済学が扱えるのは実証的な主張だけだ。そこのところを間違えると不毛な議論になってしまう。そしてどうもそういう不毛な議論が多いように見える。
こうした不毛さは科学/経済学への信頼感を奪う。その信頼感の低下によって、科学/経済学が支えていた合理的な主張への信頼も失われる。結果、非合理的な主張がまかり通る余地が拡大する。
非合理的な主張は個人が狭い範囲でわかってやってる分には楽しいものだけれど*3、それが社会のマジョリティを占めるとするとこれは悪夢だ。この懸念が僕の気持ち悪さの核心なのだな。
規範的な主張を扱うには科学/経済学とは別の枠組みが必要だ。それはたぶん倫理学の範疇だろう。似非相対主義者や市場原理主義否定論者は、科学や経済学を相対化してる暇があったら倫理学をやったら良いんじゃないか。ストレートに生命倫理や分配の問題を倫理の問題としてそのまま語れば良いのに、何を考えて問題をひねって余計ややこしくしているのだろう。頼むから余計なことはしないでほしい。世の中はただでさえ複雑なんだから。
【追記】ここで科学/経済学と併記しているのは話の流れ上たまたまであり、本来は自然科学/社会科学をひっくるめて一言「科学」と書けば済むはずだろうと思っている。
【追記1】僕が経済の問題に政治を持ち込むことをとても忌まわしいものだと考える理由も、それが実証的/規範的主張をごっちゃにしているからなんだと気付いた。余計なものを持ち込んでもややこしくなるだけどころか、間違った結論が出てしまう。それは非合理的で、その非合理性は人を不幸にするものだ。
【追記2】essaさんのところ経由で知ったid:pavlushaさんのウェーバーの「価値自由」のお話も結局同じことなのだなあ。実証的主張と規範的主張の抱き合わせセット販売を要求するのを「ロマン志向」とするのは言えてるなあと思った。僕はクール/ウェットという言葉を考えてたけれども確かにロマン的って言った方がしっくりくるかも。

*1:そんなことが可能かどうかはおいといて

*2:余談。科学者が規範的主張を行うと、アインシュタインチョムスキーのようにかなりナニになってしまうことがままある。経済学者はその点慎重なのだけれども、今度は逆に日本の大部分の経済学者達のように規範的主張=政策提言をほとんど行わなかったりする

*3:また余談。僕は笑いの本質はこの非合理性にあると思っている。つまり予測を裏切ること。人工無脳が楽しいのはそこだと思っていたりする