我慢しないと見えてこないもの

というのが世界にはたくさんあるらしいんだけど、僕は我慢が足らんので結局見えないものだらけなんだろうなあと激しく思う。でも流石にこの歳まで生きていると、あることをするのに我慢し続けないといけないようでは結局モノにならんということなのだけはよくわかってきましたよええ。
なんにしても最初のうちは慣れないから我慢が必要なのは間違いない。で、ある程度時間がたって、それでもまだ我慢が必要だったとしたら、自分はそれに向いてないんだと考えた方が素直だし幸せだろう。
僕がここで想定しているのは、例えば楽器の練習だとかプログラミングだとか研究における実験だとかのことだ。僕は最初の二つは向いていたけど(続けるのに我慢する必要がなくなって、こんなに楽しいものはないと思うようになった。上手かどうかはまた別の問題w)、最後の1つはいつまでたってもダメだった。正直、実験器具をいちいち洗うのに我慢できなかったのだ。わはは。だから研究者になろうなんて考えもしなかった。
「みんな我慢してやってんねんぞ!」という言葉が、本来全く我慢する必要がないようなことに関して発言されたのだとしたら、id:Bonvoyageさんに全く同意。もちろんBonvoyageさんが書かれたこの状況ではきっとそうなんだろうな、と思う。
僕も人よりシステムに先に目がいってしまうし(制度を憎んで人を憎まず)、馬鹿馬鹿しいことには我慢できないたちなので、同じ状況であれば「じゃ今後は『みんな』から僕を除いておいてくださいね」とか捨て台詞残して去ってしまうだろうなあ。別に僕は思考レベル高くありませんが。わはは。
一方、もしこの言葉が、最初に書いたような状況、つまり最初のうちはある程度我慢が必要かもしれない事柄に関連して発言されたのだとしたら、それは言った人と言われた人と、二重に不幸なことであると思う。我慢した先にある何か素晴らしいものを見せられない/想像できないのは本当に悲しいことだ。
でもそうした素晴らしいものっていうのは、実際には見られるようになった人にしかその素晴らしさがわからないものなのかもしれない。禅問答ではないけれど、わかった人にしかわからない、言葉では伝えられないものというのは確かにある。やり続けてその先にはじめて見えてくるそれは、続けている人にしか見えないものだ。
楽器を教えていると時々、この言葉で伝えられないものをどう伝えれば良いか悩んでしまうことがある。一番良いのは「背中を見てもらう」ことなんだけど、見ちゃいない奴もいるし、そもそも僕にそれだけの魅力がなければしょうがないからなあ。難しいなあ。ここはやはり我慢してじっくり・・・いや僕は我慢が足らんのでそれは・・・(最初に戻る)。