「重光・東郷とその時代」岡崎久彦(文庫:ASIN:456966038X、ハードカバー:ASIN:456961664X)

読了。名著。必読。でもややフクザツな気分。
著者が冒頭で書いているように、史実をできるだけ忠実に記述しようという姿勢は大いに評価できる。また、戦争を出来るだけ回避しようと優秀な政治家・軍人・官僚がとんでもなく努力した経緯はもっと多くの人が知っておくべきだろう。戦争突入を回避できたかもしれない大きな転換点がいくつか挙げられているが、なかでも真珠湾の奇襲を避け、米国の世論を見方につけた戦い方をすべきだったとの指摘には目から鱗が落ちた(当時の米国には既にギャラップの世論調査があったらしい。なんという彼我の差か!)。
しかしそれでもフクザツな読後感となるのは何故だろう。合間あいまに語られる説教じみた精神論は正直うざい。近衛文麿松岡洋右など一部の人物への痛烈な批判も、例え彼らがどんなに批判に値することを行ったとしても(実際、松岡はひどい)、他の人物への大仰な賞賛の記述とバランスがとれていないように思える。また、瀬島龍三の「大東亜戦争の実相」(ASIN:4569574270)と似た歴史観だということもひっかかるものがあるのかもしれない(瀬島龍三の評価についてはまたいずれ)。
でもこれらの根底にあるもやもやしたものをほぐしていくと、結局日本の近・現代史を俯瞰する際のしっかりした足場を僕自身が持っていないことが原因なんだと気付く。右や左の旦那様のおかげで、何がどうなっているのかさっぱりわからなくなっている。いや、何が起こったかはわかっているけれども、それをどう評価して良いのか、誰の記述が頼りになるのか、がわからないのだ。情けないなあ。
この状況は、ちょうど昨日圏外からのひとことで紹介されていたイスラム文明論にある記述そのままだ。

実際、イスラムについて学ぼうとするときには誰でも常に、西欧キリスト教側が二重三重にかぶせたフィルターをいかにして除去するかに多大な努力を割かれるものであり、かつてのソ連国内にいて「プラウダ」紙の記事から西側世界の本当の姿を割り出す努力とはさしずめこんなものだったろうかと、しばしば苦笑させられた。

自分の国の100〜60年前の状況を学ぼうとするのに、左右陣営がかぶせた二重三重のフィルターを除去しなければいけない状況は苦笑どころの話ではない。右、左、右と来て、次はまた左という洒落にならない展開だけは避けなければいけない。
ということでまだまだ先は長そう。ほとんどライフワークになりつつある【ライフワークがいくつもsvnseeds】。とりあえず、既に買って積んである;

を読んでみよう。岡崎久彦の残りの外交官シリーズも読むこと。