科学は驚異に対するひとつのアプローチ

essaさんどうも。うーん、僕の書き方が悪かったですね。すみません。たぶん僕が言いたかったことは別のことです。
僕は意識だとか脳(に代表される神経系の振る舞い)だとかについて、がんがん究明すべきだと考えてます。そして、「いずれ」は「脳の生み出すさまざまな現象を解明できるだろう」ことは間違いなかろうと思ってます(まあ「解明」の程度にもよるけど)。と言うことで、ここ(しかし我ながら古いネタを掘り起こしたな)での瀬名氏の発言のほとんどについて、僕は激しく同意してます。
じゃ、瀬名氏の発言の中で危険だと思ったのはどこかと言うと、ペンフィールドたちの例を挙げて続けた次の点です。

どちらが正しいということではない。考え方なのである。私たちが日常的に濫用しているカッコ付きの「科学」では、ペンフィールドたちをオカルトと見なさなければならない。しかし真に重要なのは、なぜ彼らがその結論に達したのか吟味することであるはずだと思う。

僕の考えでは、ペンフィールドたちの晩年の考えを吟味する必要は、少なくとも科学としては全くないと思うのです(ついでに言うとこの後の段落の「創発」も微妙な表現だけどまあいいや)。
「驚異に対するひとつのアプローチ」である科学としては自らのフレームワークに忠実にあるべきで、いたずらにグレーゾーンを取り込むことはオカルトをはびこらせるだけです。驚異に対するアプローチは別に科学の専売特許ではないので、科学としては粛々と、自分のフレームワークの充実(以前のフレームワークの廃棄を含む)を行えば良い。いくつかある中のひとつのアプローチであるからこそ、「どちらが正しいということではない」なんて曖昧な態度を、こんなレベルが低いところで取るべきじゃないと考えた訳です。なんと言うか、あまりに無責任。まあペンフィールドという例が悪かっただけなのかもしれませんけど。でもこれが「マイナスイオン」だったらこんな話にならなかったはず。
それと、「歯止めがかからなくなる可能性があって非常に危険」と言うご指摘はごもっともと思います。ただ、それは規範(どうすべきか)の話なので科学(それはなんなのか)の話からは答えは出てこないと思ってます。何か別の体系(倫理なり宗教なり)が必要でしょう。科学はあくまで世界という驚異に対する「ひとつの」アプローチですもんね。