upon my birthday

チャーリー・パーカーが亡くなったときと同じ歳になっちゃったよう。

というような感慨は実は全然なくて、というのも普段自分の歳なんか全然意識したことがない。これはたぶん肉体的にも精神的にもまだ年齢を感じるようなことが多くなくて、それはたぶん僕はラッキーで恵まれていて幸せということなんだろうと思う。多謝。

確かに昔は自分の歳と過去の偉人(が亡くなったり何事かを成し遂げたとき)の歳を無駄に比較して考えることが良くあった。いつの時点でそんなことをやめたかというとはっきりしないのだけれども、確かに言えることは、それをやめたのはある意味自分に見切りをつけたときかららしいということ。

要は自分が世界に何かを残す/遺すことを諦めたというか。ていうかもともとそんなことができる人間なんか限られているので、そうしようとする努力を放棄したというか、そのエネルギーを別のところへ振り向けたというか。つまり後世からの評価を気にしなくなったというか(だって何も残ってなければ評価のしようもないだろう)、自分がこの時代に生きたということは(後世の他人でなく)自分がわかってて自分が評価すりゃいいじゃないかと開き直ったというか。

いったん見切りを付けてしまうともう後には引き返せないのは終電を途中下車してしまったどうしようもない感じに似てなくもない。僕の場合は途中下車してから年季が入っているので今更慌しい満員電車に乗る気もない。もう乗れないけど。わはは。

でも行く先もわからない満員電車に窮屈そうに我慢して乗っていて不安いっぱいの若い人を見ると、早く降りてきて人生楽しもうよと思う反面、まだ若いんだから行けるとこまでいってごらんと思わんでもない。というのも何事かを残す人々は最後までそれを諦めなかった人々だからだ。諦めなかったからといって何か残るわけでもないけど。わはは。

もうひとつ思うのは、本当に年取ってから強制的に途中下車させられるのは本当に辛いだろうなあということ。そんな目に合うくらいなら自分から降りれば良いのに、と思っちゃうけれども、これはやっぱり人生というのはそれだけ見極めが難しいゲームだということなんだろう。南無南無。

で、途中下車してあんたは一体何をやるつもりなのかと言うとですね。僕は世界が何故こう在るのかを理解したいと思っている。自分が何かを成し遂げることには興味がないけれども、何がどうなっているのかは理解したい。そういえば昔から不老不死になって世界を見届けたいというのが夢だったな。いや不老はオプションで構わないんですけど。ボケない程度に不老ってことでどうすか。やっぱり殺してくれとか絶対言いませんから。

とかくだらんことを書いているうちに次の日になってしまったことであるよ。この1年がみんなにとっても良い年でありますように【世界の中心svnseeds】。ということでもう寝ます。ではごきげんよう