フィクションとノンフィクションと現実世界

何故僕はフィクションを読むことを現実逃避の手段と考えるのか、id:bmpさんのところのコメントに書いた「パッケージ化」をキーワードにちょっと考えてみた。
フィクションもノンフィクションも、パッケージ化された「お話」であるという点では似たようなものだといえる。違いはどこにあるかというと、(もちろんその「お話」の構成成分比率もあるんだけれども、読み手としては)その「お話」が自分の中に取り込まれた後の再利用のされ方にあるんじゃなかろうか。と思ったわけですよ。
ノンフィクションの場合、自分で現実世界をパッケージ化する際のサブモジュールとして使われるように僕は思う。つまりノンフィクションの「お話」は、自分なりに現実世界を再構成する際のパーツとして、ほとんどそのまま自分の中に取り込まれることになる。
だからノンフィクションを読んだら、どうしてもいったん現実世界に戻る必要が生じる。整合性をチェックをしつつ、今読んだ「お話」を自分オリジナルの「現実世界パッケージ」に取り込む作業を行わなくちゃいけない。これは現実世界が少々厳しい状況にある場合、結構つらい作業となる。だから気分がのらないときはノンフィクションが読めない。僕の場合。
一方、フィクションはどう自分の中で消化されているかと考えると、自分で現実世界をパッケージ化する際の、その方法論に影響を与えているように思える。つまりフィクションの「お話」は、ノンフィクションのようにサブモジュール/パーツとしてごろんと丸ごと取り込まれるわけではなく、世界を眺める方法論/メタルールとして吸収されているみたい。
だからフィクションを読んだ場合、必ずしもすぐに現実世界に戻る必要性はないわけで、そこが現実逃避したい僕にとっては非常に具合がよろしい。ということみたい。どうすか。
となると、どんなフィクション作品が好きか、とか、そもそもフィクションが好きかどうか、って話は、そのフィクション作品やフィクションというジャンルそのものの、その人(の現実世界パッケージング作業)にとってのメタレベルでの再利用可能性の問題になるような気が。しませんかそうですか。ちょっと話広がりすぎですか。わはは。