「政治的」なものの見方/考え方を最初から導入することの恐ろしさについて、ていうか気質の違いについて

約1週間前のこれについてessaさんからいただいた反応への激しく遅れたお返事。すいませんすいません。色々考えていたらむちゃくちゃ長くなっちゃいましたよ。ではさっそく。

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僕がここで目的としているのは、説得ではなく納得です。僕の考え方が正しい、と主張して説得したいわけでは全然なくて、何故僕がそう考えているか、を納得してもらえれば良いなあと考えているわけです。だから僕の考え方に同意していただく必要はまったくありません。お互いの考え方の違いをはっきりさせることを目的としたいわけです*1

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まず、id:kmiuraのところのコメント欄にも書いたのですが、そもそもの僕の発言の意図がわかりにくかったようなので、次の3点を確認しておきましょう。

ひとつめ。僕は「政治的」なものの見方や考え方を排除すべきだとは考えていません。最初は政治的なものの見方を除いて考え、しかる後に(必要であれば)政治的なものの見方を導入した方がスジが良いのではないか、といっているわけです。

2点目、「政治的」なものの見方や考え方が非論理的だと言っているわけでもありません。「政治的」かつ「論理的」なものの見方や考え方というのはもちろんあるでしょう。そして、非論理的なものの見方や考え方であるならば、政治的であろうがなかろうが、非難されるべきと思います(もちろんこれは論理性が要求される文脈において、ですよ。非論理的なものがすべからずよろしくない、とは言ってませんのでご注意。そうじゃないと冗談も言えなくなってしまいます)。

最後に、人間というのは非(不)合理的な存在だという点も了解済みです。ただし、統計的/長期的に見た場合、僕は人間はまずまず合理的な存在だと考えています。つまり個人/短期で見るのでなければ、人間は合理的な存在だと仮定して扱ってもそれ程問題はないと考えています。この見方の違いについては最後の方で改めてふれます。

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ということで、essaさんの「一般化」の結論である「制御可能になるように、解明されている法則の範囲で行動すべきである」には同意できません(経済学的な知見が適用できるように人間は行動すべきである、というのは本末転倒すぎですよね!)し、essaさんが書かれている「恐ろしさ」は僕の感じている恐ろしさとはどうも別物じゃないかと思います。また、id:kmiuraの言う「捨象できないこと」が存在することを否定しているわけでもありません。

じゃあ結局僕は何を言いたいのか。つまり、どうして政治をあと回しにしないとスジ悪だと考えるのか。また政治を最初から導入してしまうことを何故恐ろしいと考えるのか。そしてこのような見解の相違はどこから来ていると考えるのか。以上3点についてちょっとまとめてみたので、まあ聞いてくださいまし。長いです。

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まず、どうして「政治的」なものの見方/考え方を最初から導入するとスジ悪になると考えるか、について。結論から言うと、そんなことすると「なんでもあり」になってまともな議論ができないと考えるからです。

僕の見解では、経済学とはトレードオフを認識するものであり、政治とはそのトレードオフを調停するものです。つまり、合理的に出されたトレードオフを、合理性以外のものも含め勘案した上で調停するのが政治の役割だと考えるわけです(これが、kmiuraのところに政治はfine tuningと書いた理由なり)。

そして、こうした最後に出てくる役割であるところの「政治的」なものの見方/考え方が、もし議論の最初から混ざっていると、まともなトレードオフの判断ができなくなり、結論ありきのなんでもあり議論になってしまうと僕は考えるわけです。トレードオフの概念がなくなってしまうため何と何を比較しているのかがわからなくなってしまい、「どうしてこれが良いのか」の判断が「良いから良いのだ」のトートロジーに終始することになるだろうと。これはどう考えても不毛でスジ悪です。

だから、問題を考えるときの出発点では、なるべく「政治的」なものの見方/考え方を排除することが重要だと考えるわけです。つまり、まずトレードオフをはっきりさせることが重要で、その上で必要であれば(つまりトレードオフが自明でなければ)政治的な判断を行えば良い。

って、これってひとことで言うと「判断にバイアスをかけるな」「ゼロベースで考えろ」ってことなんですけどね。憲法改正の話やイラクへの自衛隊派遣の話、農作物の輸入自由化の話も道路公団の民営化の話も、最初から政治が入りすぎてて何が論点なのかさっぱりわからなくなっている良い例だと思います。君たちは政治が好きすぎる。わはは。

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2点目、では「政治的」なものの見方/考え方を議論の出発点で排除できないとなぜ恐ろしいことになるのか、について。これも結論から言うと、誰も望んでいないことを黙々と進める(もしくは続ける)ことになる可能性が非常に高いからです。

「政治的」なものの見方/考え方が議論の出発点に混入するということは、既に調停が成された状態で問題を考えることになります。これはとり得る結論の選択肢を非常に狭める。仮になんらかの選択肢が俎上に乗ったとしても、「それはあり得ない、今からでは遅すぎる」となってしまう。結果、「これしかない」という道に進んでしまわざるを得なくなる。つまり、誰もそこに行きたくなくてもそうなってしまう可能性が高くなるわけです。

別の言葉で言うと、「政治的」なものが議論の最初に導入されてしまうと、decision treeの中のそのnodeという一点でしかものごとを判断できなくなる。既に調停が成されているため、ひとつ前のnodeにさかのぼってpathを判断することができなくなるわけです。更に、そこでの議論の結論もまた調停が成されたものとして扱われることになり、以降延々とこのプロセスが続くことになる。過去の間違いを正す機会が与えられず(それどころか考慮する機会も与えられず)、ひたすら現在の状況を与件として扱わざるを得なくなるわけです。

このような、今ある現実の制約の中で問題を解決しようとする姿勢は、僕にとっては非常に危険で恐ろしいものに思えてなりません。なんとなれば、これはDQNへ至る道だし、日本が太平洋戦争へ至った道だし、ブッシュがイラク攻撃へ至った道でもあるように僕には見えるのです。

だから、こうした事態に至る「考え方の考え方」は極力避けるべきと考えるわけです。政治を考えるのは後回しにしましょうと。君たちは政治が好きすぎる。わはは。

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最後に、kmiuraやessaさんと僕の見解の相違がどこから来たのか、僕の思うところについて。これも結論から言うと、その違いは出発点の違いでもあるし、時間軸のとり方の違いでもあるように思います。断っておきますがどっちが良い/悪いという話はしませんので念のため。単に違いがあることが面白いのでそれを考えてみただけですよ。

まず、出発点の違いとは、現実の制約を「あるもの」として考えを始めるのか、その逆に制約をとっぱらって「理想的な状態」を念頭に考えを始めるのか、の違いです。kmiuraがここで書いている、「でもどうやら捨象できないことがある、というのが諦念であり実践的なのだと私は思う」という言葉がこの違いを端的に表しているように思います。

つまりkmiuraの場合、実践的であろうとするために、現実の制約を「あるもの」として受け入れることを好むように見えます。が、僕は逆に、理想的な状態から徐々に制約を加えていって実践的な状態にする方を好むわけです。だからたぶん、僕はここでは「諦念」という言葉は使わないと思います。出発点で何かを諦める必要がないので(そのかわり、最後になって現実を受け入れるわけですが)。この違いはなかなか面白い。

もうひとつ、時間軸のとり方の違いとは、「今の問題」を解決するために考えるのか、「この先の問題」を解決するために考えるのか、の違いです。例えば、今の問題を解決したいと考えている人からすれば、人間は非合理的で突拍子もない存在だと考えた方が「合理的」ですが、長期的な問題を解決したいと考えている人であれば、人間は合理的だと考えた方が「合理的」になります。この違いも結構面白い。

僕はどうものんびりしているので、どうしても問題を長期的に眺めてしまう。10年とか50年とか100年とか。だから個々の人間がいかに非合理的であっても、50年や100年の間の人間集団の行動は、それほど非合理的じゃないと考えて良いんじゃないかな、と考えているわけです。進歩史観は大嫌いだけれど(進歩以外のものは全部「悪い」ことになってしまうので)、おおよそ人類の生活の変化の歴史は、人々が合理的に振舞った結果と評価して間違いないと僕には思えます*2

ただ、こうした僕の人間の合理性への信頼というのは、「今の問題」を考えている、人間を非合理的だと仮定している人たちの活動の上に成り立っているわけです。この捩れというかひっくり返っているところが僕にはとても面白いんですけどそうでもないですかそうですか。人間を非合理的だと仮定している人たちの、集団としてのアウトプットが十分合理的だと仮定できれば、長期的には何も問題ないことになるんですよね、僕の見方が合理的であれば。そうだと良いんですけど。わはは。

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最後の最後に、こうした「考え方の考え方」の好みの違いってのはどこから来るのかなあ、ってことを考えてみるに、きっとこれこそ気質から来るんでしょうねえ(気質と性格の違いは良くわかってませんが)。例の性格判断でいうと、ESとINの違いなのかな。kmiuraと僕は、飽きたら放り出して最後までやり通せないところが共通してるようです。ろくな共通点じゃないなあ。わはは。essaさんはどのタイプでしょうか。ちょっと興味あります。

あと、本当の最後に。今回は主に僕が見た恐ろしさについて書いたわけですけど、逆の立場からみると、「現実の制約を無視して現在の問題を正面から捉えることをせず、一度決まったことを後から平気でひっくり返し、それが正しいやり方だと主張する」僕のようなものの考え方こそ恐ろしい、許せない、という話になることでしょう。間違いない(笑)。

で、お願いなんですけど、自分の弱点はよくわからんものなので、どなたかそれについて論じていただけないでしょうか【他力本願のsvnseeds】。どんなふうになるのかちょっと楽しみ。

*1:僕にとっては、人によって色んな考え方があるということを知るのはとても楽しいことなのです。ウェブの日記/blogでは、日常接する人よりも沢山の興味深い人と、このレベルでの交流がより容易にできるのでとても楽しい。僕がはてなで日記つけてる理由は主にこれなんだろうなあ

*2:だから、essaさんが最後に引用されている「合理性にコミットするべき理由は合理的には与えられない」云々は、僕にはどうでもいいことを小難しく言ってるだけのようにしか見えません。「合理性にコミットするべきでない理由」が合理的に与えられないのであれば、するべき理由もまた合理的に与えられなくとも不思議でもなんでもないんじゃないかと。そもそもその理由が合理的に与えられるべきと規定しなきゃいけない根拠がよくわかりませんし。つまり合理性にコミットしたい人は単にそうすればよいし、そうしたくない人は単にそうしなければ良い。それぞれの選択の結果は自ずから異なるでしょうが。それだけの話だと僕には思えます