みんなの分類学

って書くと「ヒミツの特訓」を思い出すなあ。何を特訓するかというと「いかにしてヒミツにするか」を特訓するのです。で、何をヒミツにするかというとそれはヒミツという罠。・・・あああ僕が面白いと思うのはこんなメタな冗談ばかりだなあ。どうもすいません。何が面白いのかわかりません、とか真顔で言わないように。
閑話休題【いきなり閑話はsvnseeds】。もうそろそろ収束気味なので今更分類を試みてもアレなんですが、id:Bonvoyageさんのコメントを受けて思いついたのでメモというか。
「みんな」という言葉の使い方を、修飾的用法限定的用法の2つに仮に分類してみたけれど、後者は更に、自分を「みんな」の側に置いているかどうかで2つに分類できるようだ。
自分を「みんな」の側(つまり多数派)に置いている場合、これを規範的用法、一方自分を「みんな」の側に置いていない(少数派の)場合を老獪的もとい希望的用法と仮にしてみたい。整理するとこんな感じ。

  1. 「みんな」
    1. 修飾的用法(言葉の字義通りの使われ方。「全員」や「世界中」で代替可能)
    2. 限定的用法(「全員」や「世界中」で代替不可能。つまり別の意味が入っている)
      1. 規範的用法(自分を「みんな」の側=多数派においている)
      2. 希望的用法(自分を「みんな」以外=少数派においている)

ここで規範的用法とした「みんな」の使われ方のいやらしさはたぶんみんな異論はないんじゃないかと思う。自分を多数派においた(どこの多数かはおいといて)「みんな」の使われ方には、押し付けか言い訳が垣間見えてとても気持ち悪い。この気持ち悪さは、僕が思うに、論理が通用しない気持ち悪さだと思う。
一方微妙なのは、ここで希望的用法と仮にラベルした、自分を「みんな」の外においた少数派としての使われ方。この使われ方が気持ち悪く感じられるときがあるとすれば、たぶん何かしらの権威が裏にあって(権威をかさにしているとまでは言わない)、更にその権威の根拠が明示されていない場合じゃなかろうか。
つまり根拠が明らかでない場合、少数派が希望的に述べていても、そこに論理の鎖が見えない為、どうしても気持ち悪さが残ってしまう。悪くすれば、こう考えない奴は馬鹿だ、と言っているのと同じことになる。反省。
要するに裏にちゃんと論理があれば気持ち悪さってないよね、と言いたいんだけど、実際どうなんだろう。うーむ。わからん。僕はそれで納得するんだけど。みんなはどう思うのかなあ。わはは。