私の考える「降りる自由」

昨日からあれこれぼんやり考えているんだけど、やっぱりこれ以上この話を考えてもしょうがない気がしてきたのでもういいや、と思ってます。
というのも、案の定、定義が曖昧なまま進んでしまった議論に見られる典型的な状況になってきているようで、つまりこのまま考えても「私の考える『降りる自由』」がバクハツするか、「実は東さんが何を意味していたのであったか」の探りあいか、のどっちかにしかなりようがなく、前者は自分にしか意味が無いのでここに書くまでもなく、後者は東派の人にしか意味が無いので僕にはまさに意味が無い。どっちにしても意味が無いのが明らかなんでもうやめようかなと。
ただしこのからみで2つ面白い論点があったので、こちらは引き続き考えてみるつもりです。ひとつはid:kmiura氏がここの最後の方でちょっと書いている自由意志の問題。僕は究極的にはこの世に自由意志なんかない、何故ならこの世は巨大な実時間演算機械だからだ、という立場なんです。ただ、世の中複雑過ぎるので、自由意志があると仮定しても一向に構わないくらい因果関係が混沌としている。だから正確にはどっちでもいいんじゃない、という立場。複雑かどうかというのは要は結果に影響する要素の数と抽象化可能性の問題なんですけど、この辺はまたいずれまとめて書こうと思ってます。
もう1つはbewaadさんが指摘されていた問題で、富裕層とそうでない層とでのコミュニティへのコミットメントとその放棄のあり方の違いについての問題。こう書くとそんなの違ってるの当たり前じゃないか、と思うんだけど、じゃあコミュニティがどうだったらどう違うのか(それとも違わないのか)、コミットメントの度合いによって放棄しやすいかどうかが異なるのかどうか、など色々話が膨らませそうで、且つ何かシンプルなインサイトが得られそうな気がしてます。富裕層でなくエリート層ということで話をすれば、昨年末にbewaadさん、kmiura氏他が話していた内容にかなり近い話にもなる気もするし。気のせいかな。わはは。
とにかく、今後この2つの話(や、別の似たような話)をする際には「降りる自由」という言葉は使わないようにしないとな。何か良いキーワードないですかね。