原点

圏外からのひとことさん経由でid:ueyamakzkさんの日記へ。大変興味深い記述があったのでちょっと長いけど引用してしまおう。

理論的な意識が構築した世界に、現実の自己や自身の生を、その要因として入れることはできない。もしそうなった場合、われわれは決定づけられた存在、前もって決定された、過去の、でき上がった存在、本質において生命を失った存在となる。われわれは、責任とリスクを負った、開かれた生成の行為としての生から、無関心な、原理的に出来合いの、完成された理論的な存在へとみずからを追いやることになる。これは行為の随意性、新たなもの、創造されるもの(行為のゆく手に立ち現れるもの)を排除することによってはじめて可能なのだが、そうした世界では、生きること、責任をもって行為することができない。そこではわたしは不要であり、原理的にいってわたしは存在しない。理論的な世界は、わたしの唯一の存在という事実と、この事実のもつ道徳的な意味を原理的に捨象することによって得られるものなのである。

バフチンという人の言葉だそうです。僕は現代思想は疎い(し、嫌い)なのでどういう人なのかよくわからんのだけど、この記述は上手いと思った。これ、まさに僕の原点なのだ。
ただし、ここでは「理論的な意識が構築した世界に、現実の自己や自身の生を、その要因として入れること」はネガティブ(もしくは不可能)なこととして描かれてますが、僕はポジティブ(且つ必要)なこととして捉えてます。これいつか書こうと思っていたテーマだったので、ちょうどよいからどういうことか書いてみよう。
確かに「理論的な意識が構築した世界に、現実の自己や自身の生を、その要因として入れること」によって、自分は「決定づけられた存在、前もって決定された、過去の、でき上がった存在、本質において生命を失った存在」になるし、「生きること、責任をもって行為することができな」くなるし、「そこではわたしは不要であり、原理的にいってわたしは存在しな」くなってしまう。
これ、要は自分なんかいてもいなくても世界はちっとも変わらん、お前なんか存在している意味がないからいらないよ、ということですね。
でも、こういうものの見方を受け入れても、結局生きている自分がそこにいる(まあ本当に死んじゃう人もいるかもしらんので万人にはお勧め出来ない)。なんで生きてるのかっていうとよくわからないんだけどとにかく生きている。これはもうしょうがない。とにかく生きてるんだから死ぬまで生きるしかない。
そうやってもがいていくと、いったん色を失った世界が徐々に色彩に溢れてくる。例え「決定づけられた存在、前もって決定された、過去の、でき上がった存在、本質において生命を失った存在」であろうと、主観的には一寸先は闇なんだからそれがどうした、と。例え「生きること、責任をもって行為することができな」くなろうと、実際生きているし責任も(ある程度w)とってるんだからそれがどうした、と。「そこではわたしは不要であり、原理的にいってわたしは存在しな」くなっても、僕は僕にとって必要であり、原理がどうだろうと僕は存在してるんだからそれがどうした、と。
この発想の転換のコツは、ものの見方の中心を世界から自分に引き戻すことなんだと思います。世界にとって自分が意味がなくても、自分にとって意味があれば十分じゃないかと開き直る。自分を中心に世界を再定義するわけです。そうすると無意味であることが楽しくなってくる。世界にとって無意味でも僕にとって意味があればそれで良い。

って、これ、ぐるっと一周して元の位置に戻ってるだけなんですけどね。普段やってることは全然変わらないという。ものすごく遠くまで行ったのに進歩なし。わはは。