科学者とエンジニアとしてのマクロ経済学者(10・完)

【この文章は、N. Gregory Mankiwの"The Macroeconomist as Scientist and Engineer"を勝手に翻訳したものです。段階的にアップロードしていく予定です。内容などおかしなところがあれば、メールもしくはコメントにてご指摘いただければ幸いです】


歯医者は見当たらない


ジョン・メイナード・ケインズJohn Maynard Keynes, 1931)が次のように述べたことは良く知られている。「もしも経済学者たちが何とかして、彼ら自身を歯医者と同じレベルで謙虚で有能であると考えることができたとしたら、それは素晴らしいことだろう」。彼は、科学としてのマクロ経済学が、便利で日常的なエンジニアリングに発展できたら、という希望を表現していたのだった。この未来のユートピアでは、景気の後退を避けることは虫歯の穴を埋めるのと同じくらい容易となるのだろう。

過去数十年の学問的なマクロ経済学における主要な発展は、歯医者との類似性をあまり生み出さなかった。新古典派と新ケインズ派の研究は、金融政策と財政政策を指揮するという面倒な立場にいる実践的なマクロ経済学者たちにとってあまり影響を与えなかった。そしてそれはまた、未来の有権者たちが学部教室へやってきたときに教師たちがマクロ経済政策を教えるその内容にも、あまり影響を与えなかった。マクロ経済学的エンジニアリングの観点からは、過去数十年の研究は不運な方向の誤りに思えるのだ。

とはいっても、より抽象的なマクロ経済学の科学の観点からは、こうした研究はもっと肯定的にとらえることができる。新古典派の経済学者たちは、大規模なケインジアンマクロ経済学的計量モデルやそれに基いた政策の限界を示すことに成功した。新ケインズ派の経済学者たちは、賃金と価格が均衡することに何故失敗するのか、より一般的には、短期的な経済変動を理解するためにはどのような市場の不完全性を考えれば良いのか、ということを説明するより良いモデルを提供した。この二つのものの見方の間の緊張は、常に礼儀正しいものではなかったが、市場の成果にとってと同様に知的進歩にとっても競争は重要であるから、生産的だったのかもしれない。

その結果として得られた知見は現在発展中の新しい総合に組み入れられ、そしてそれはやがて次の世代のマクロ経済学的モデルの基礎となるだろう。科学として、またエンジニアリングとしてマクロ経済学に関心を持つ我々は皆、最近の新しい総合の出現を、その両方の面での進展を可能とする有望な兆しとして理解できる。今後も、謙虚で有能であることは依然としてマクロ経済学者たちが目指すべき理想として残るのだ。

(完)

やっと

終わったー!

2週間くらいでできると思ってたのだけど、やってみたら1ヶ月こえちゃいました。時間かかってしまってどうもすみません。自分の能力の無さ加減を痛感。慣れないことはするもんじゃないっすね。わはは。

近いうちに、訳語を統一して参考文献へのリンクをはって、全文をどこかにまとめておく予定です。

しかし翻訳って難しい。どうしても直訳というか逐語訳っぽくなってしまって自然な日本語にならない。あんまり「自然」にすると今度は不正確になっちゃう恐れがあってそれが怖いし。

例えば、日本語って普通の文章だと語尾が単調になり勝ちで、バリエーションとしてあえて断定しない「だろう」とか入れて調子整えることってあるんだけど、訳してるときは流れ上「だろう」とかを入れた方が自然だと思っても、原文が断定口調だと入れられないのでした。「であった」とか「なのだ」とかで変化つけるくらいがせいぜい。

オリジナルをどこまで尊重すべきかってのは難しい問題なんだなあ。今後は明らかな誤訳以外はあんまり翻訳にケチつけるのはやめよっと(笑)。

内容については悲しいことに僕に何か言えるわけでもないのですが、ちょうどギリシア旅行中に稲葉先生大絶賛のコルナイの自伝(ASIN:4535554730)を読んでいたので非常に興味深かったです。これは激しくお勧め。

やはりコルナイもエンジニアか科学者かで散々悩んだことがわかります。態度としては科学者を貫いたコルナイですが、しかし彼の研究の成果は後の者たちのエンジニアリングの基礎となり、そしてコルナイはそれを誇りにしている。科学者とエンジニアの美しい関係だなあと思った次第。