大変

興味深いコメント欄。稲葉先生のところ。大御所揃い踏みで賑やかです。生暖かく見守らせていただく所存なので是非末永く続けていただきたいところ。ていうか資本主義とか貨幣経済(とかその他なんでも)を所与として考えられないのはまさに不幸の始まりであることだなあと深く感じ入った次第。閑話休題

この中で気になったのがid:dojinさんの以下の言葉。による今の左翼の状況を代弁した言葉(20051122訂正)。

リフレで景気よくなっても、また10年後とかに何らかの理由で景気悪くなったらどうせまた弱いものから切り捨てだろ?そういう社会構造そのものが気にいらねぇのに、リフレ派はそういうことについては何もいわねぇ。

うーん。「景気が悪くなって最初に切り捨てられる人たち=弱いもの」なんで、同義反復なんだよなあこれ。いや他に「弱いもの」の定義があればアレなんですけど。でも実際そうでしょう?

なので、この問いは最初からばっちり答えを含んでいる、というのがリフレ派の見解だと僕は思うんだよなあ。つまり「弱いもの」が切り捨てられないようにするには景気を悪くしないようにするしかない、と。

でも景気は良くなったり悪くなったりするものだ。だから、景気が悪くなったとしても、なるべくすぐに景気を回復させることが出来るような知見を蓄積して共有するべきだ、と。これが稲葉先生の前著の主要なメッセージだったのだと僕は思う。

ていうかアレですか、「景気は良くなったり悪くなったりするものだ」が気に入らないんですかそうですか。でも水は高いところから低いところへ流れるし、カネもヒトもまた然り。これを変えることが出来ると考えるのは僕にとってはファンタジー(しかもかなり出来の悪いもの)としか思えないのだなあ。

まヒトそれぞれですけどね。ていうかつくづくルソーは罪深いな。南無南無。

「多様性を認める社会」と「すべてのヒトが幸福であることを保証する社会」は両立しない。

何故なら、「どんな集合にも属さない要素または集合」を含む集合は考えられないから。

解説。
「多様性を認める社会」であるということは、「すべてのヒトが幸福であることを保証する社会」から逸脱する存在を認めるということだ。

一方、「すべてのヒトが幸福であることを保証する社会」から逸脱する存在は、定義により幸福であることを保証されない(不幸とは限らない。もしかしたら幸福かもしれない)。

つまり、「多様性を認める社会」では、すべてのヒトが幸福であることは保証されない。

よって、「多様性を認める社会」と「すべてのヒトが幸福であることを保証する社会」は両立しない。解説終わり。

ってこんなことはとっくの昔に誰かが言ってるんだろうけど(8歳のときのバートランド・ラッセルとか)、稲葉先生のところの内藤さんのコメントを読んでこんなことを考えた。アレは僕にとっては悪夢のような世界ですよ。

ところで、こういうのって思いつくのは一瞬なのに人にわかるように説明するのはめんどくさいものであることだなあ。ってこれでもわかんないですかそうですか。どうもすみません。わはは。