自分の評価を他人任せにしない

essaさんこの記事を読んで思ったこと。リンク先をつい読みふけってしまった。
僕が思うに、本当に幸せになるコツとは、自分自身の価値を他人の評価で測らないことだ。人が自分をどう思っているかで一喜一憂するのも馬鹿らしいし、思ったとおり評価してくれないといずれその人を恨むことになってしまい、自分だけでなくまわりも不幸になってしまう。
自分の価値は自分で評価するのが良い。他人がどう思おうと関係ない(もちろん迷惑かけちゃダメよ。ベビーブーマーの親はその辺激しく勘違いして子育てしたみたいだけど、これはまた別の話)。自分の評価を他人から取り戻して、基準点を自分だけに置くのが良い。そうすれば、わざわざ「自分探し」なんてしなくて済むというもんだ。
もちろん、自分で自分を評価するようになると、落ち込んでる時は最低になる。人のせいに出来ないだけ、余計につらいものがある。でもどうせ自分とは死ぬまで付き合うわけだから、これは慣れなきゃしょうがないでしょう。慣れたらそのうち、自分の評価なんて気にしなくなる。だって結局、全部自分のことなんだから。
・・・ううむ、なんか言葉にすると安っぽい啓蒙本の筋書きみたいだなあ。言うは易く行うは難し、と。わはは。

援助交際がいけないとされる理由/根拠を論理的に説明して下さい。

はてなの質問。出ました「○○は何故いけないのか」。○○には援助交際の他、定番の「人を殺すこと」や「議会にマスクをつけたまま入ること」などが入ります。
僕はこの手の質問が大嫌いなんだよなあ。質問する人は無邪気に聞いてる場合もあるから(特に子供の場合)まあ良いとして、最悪なのはこれをいかにも大問題であるかのように取り上げる人たち(例えばこんなの)。もう虫唾が走ります。しっしっ。
思うに、そもそもこれらの質問は、これらを問うという行為自体がおかしい話なんです。だから満足行く回答が無い事をもって「やはり○○をしていけない根拠は無い」なんて短絡的判断をするのは非常にアレだと思いますね。
ダメなんだからダメ、でどうしてダメなんですかねえ。それで満足行かないんだったら一生かけてこの問題を追求すれば良いんだし、どうしても○○したいんだったら、○○が許されているどこかへ行くか、革命起こすか、生まれた時代が悪かったのさとつぶやいて詩人にでもなれば良いんです。本来大騒ぎするような話でも、あれこれ理屈をこねまわす話でもない。
この手の質問を大問題とする人たちってのは、何かを問うことで自動的に回答が得られるとでも思ってるんですかね。違うでしょう。世の中、回答を得られる問いの方が少ないんです。だからみんな、一生をかけて問い続けているのがわからんのですかね。もし満足行く回答が得られない場合、それは大抵、問い方が間違ってるんですよ。

「○○をしては何故いけないのか?」

ダメだからダメ、じゃまた高圧的とか言う人が出てきそう(笑)なので、僕だったらどうするかちょっと考えてみた。
で、今のところの結論。こう問い返せば袋小路にならないんじゃないかな。

「○○をしてはいけない」理由が論理的に説明できない場合、それは自動的に「○○をしても良い」ことを意味するだろうか?

後はこの問いに相手がどう答えるかで変わってくるけど、結局は「そんな質問人に聞いてどうすんだよ。自分で考えろよ」ってところに落ち着くと思う。ってこれじゃ昼に書いたこれと同じだなあ。もう寝ます。